愛とは「ごめん」と言わないこと

「ある愛の詩」という映画を見た。二回目である。
 昔、若い二人のカップルがいた。
 一人はハーバード大学に通う大金持ち階層の男性。もう一人は田舎出身のカトリックの女性。二人は愛し合っていたが、男性の父親から、身分の違いを理由に結婚を断わられる。男性は家族に勘当を告げ、彼女と結婚しようとする。「結婚」と「勘当」を巡って、ケンカをしてしまう男と女。そして、男が「悲しませてごめん」と謝ったとき、女の口から返された返答。それこそがあの有名な言葉、「愛とは決して後悔しないこと」(「Love means never having to say you’re sorry」)である。
 なるほど、「愛」とは後悔しないことだ。以前、僕はそのように理解していた。
 でも、実は、それは誤訳だったようである。
 内田樹先生の「子供は判ってくれない」(文春文庫)の中でそれが指摘されている。
 「愛とは決して後悔しないこと」では、「とにかく後先考えずに情熱に身を任せて突っ走れ」というふうに誰でも理解するだろう。しかし、物語の中での意味はそうではない。この物語の中では、その原文通り、「愛とは、ごめんといわないこと(love is not to say sorry)」という意味で使われている。
 なるほど、つまり、こういうことであった。
 「愛というのは、あとで「すまない」と言わねばならないような仕儀に立ち入らないように、一瞬たりとも気を緩めないほどに張り詰めた対人関係のことである」と(P192)
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 これは、本当に正しい指摘である(さすが先生である)。
 もし僕が、この「愛の心得」をもう少し前に知っていたら、と思う。もちろん、「もしもあのときこうしていたら」というのは、言い訳に過ぎない。ミラン・クンデラが言うように、「そもそも人間というものは、あらゆることをいきなり、しかも準備なしに生きなければならない」生き物である。悩み、もがき、苦しみ、そして「愛とは何か」を身をもって体験して初めて、ひとは大人になっていくのであろう。
 これもまた、揺るがざる自然の摂理なのだ。頑張れ、人間。

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広井先生に会いに行く

 西千葉駅から千葉大学の敷地に向かうと、自転車がせわしなく行きかっていた。 キャンパスの端から端までいくのに20分はかかると思われる広大な敷地。なんとなく、アメリカの大学っぽい雰囲気である。
ぼくは迷い歩きながら、その研究室にたどり着いた。
 教授の名は、広井良典先生。
 先生はさわやかな笑顔で迎えてくれた。ついでにお茶まで出してくださった。非常にウェルカムな雰囲気である。おそらく今まで出会ったなかで、もっとも柔和な人格者の一人である。ぼくの興味・関心に沿って、丁寧に文献のアドバイスから今後の将来の方向性のご教授までしてくださった。
 広井先生の研究室には、「福祉」や「環境」、「死生観」や「医療問題」、「コミュニティー」といった幅広い分野に渡る文献が所狭しと積み上げられている。机の上には、ぼくも読もうと思っていた、日経新聞社の「されど成長」という本が置いてあった。
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 広井先生の専門は一言でいうことはできないが、あえていうとすると、その本の名前のとおり、「持続可能な福祉社会」(ちくま新書)の可能性の探求、ということになるであろうか。
 その本を一読して感銘を受けた。ぼくがこれまでの大学生活で探求してきたことが「持続可能な福祉社会」という概念のもと、多角的に分析され、的確に言葉にされていたのである。
 本書の軸である「人生前半における社会保障」の示唆は、かなり説得力がある。
 最近でも、「後期高齢者」という言葉に表されるように、そもそも人間のライフサイクルの寿命は延びている。出口がどんどん後ろに延びていっているのだから、入り口だってどんどん後ろに伸びていってしかるべきである。それは論理的に考えて、当然の帰結であるといえる。
 でも、実際に「入り口」は変わっていない。
 高校を卒業したら社会人として働く。大学を卒業したら社会人になる―。宙ぶらりんな生活は、原則的に許されていないのである。むしろ、社会的な合意として認められていないといった方がよいだろうか。 広井先生は、ここの「後期子ども」というべき期間に対してさまざまな保障があってよいと言い、たとえば、「若者基礎年金」というものを提唱している。
 また、話は飛ぶが、そのほかにもヨーロッパの事例を挙げながら、環境税の可能性も示唆している。環境税とは、税収のアップという点よりも、地球環境への負荷を減らすという点を狙いとした税である。日本では、「企業の活力を奪う」として、経団連を中心に反対されている。
 ただ、環境税の使い方を工夫すれば、「国際競争力」を殺がない形での「経済成長」と「環境保全」は両立可能である。本書のドイツの例によると、環境税を導入することで環境保全を促進する。そしてそこで得られた税収を、年金保険料の負担軽減などに当てて「福祉」の充実を図る。
 そして、環境税によって年金保険料が引き下げられれば、企業の保険料負担も減る。その結果、国際競争力が高まる。これが、ドイツで行われたエコロジカル税制改革である。
 道路特定財源の一般財源化をどうするのか、暫定税率を再び上げるか上げないかということで泥沼の政治状態にある日本であるが、すでに90年代に環境税を導入しているヨーロッパにしてみれば、今頃なにを議論しているのかと、「理解不能」のことと思っていることだろう。
 日本のヴィジョンが見えないという方は、是非一度、広井先生の著書をご精読いただきたい。

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国際連帯税@千葉大ゼミ

 2月から、千葉大の「上村剛彦ゼミ」にお邪魔させてもらっている。上村先生は、もともと国連職員として働いていたが、「日本からこそ世界を変えることができる」と思いはじめ、現在は、千葉大学地球福祉研究センターで研究を行っている。その専門は、ズバリ、どうすれば世界がハッピーになれるか。より具体的にいえば、「グローバルタックス・国際連帯税」についてである。
 年々減り続けるODA、そして内向きな政治状況。これらの政治状況の打破の一助として期待されているのが、「国際連帯税・グローバルタックス」である。2月28日には、超党派による「国際連帯税」の議員連盟が発足。これから日本の「国際連帯税」の導入に向けて活動していくという。
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 春休み中、パリやジュネーブ、ノルウェーでその最先端の動きを見てきた上村先生。先日のゼミでは、「国際連帯税」についての報告を伺った。ものすごく簡単にまとめると次のようなものになる。
 現代のもっとも大きな政治的な問題は、どのようにしてグローバルな問題について対処していくか・規制をかけていくかという点に収斂されるといってよい。現代は、「グローバル市場」が突出して影響力を持っている。多国籍企業が市場を席巻し、ヘッジマネーは世界を行きかう。その一方、「グローバル政府」なるものは未だに存在しない。「グローバル市民社会」の影響力も未熟である。
 そんな中でも、各国ごとにできることはある。それが「国際連帯税」である。
 フランスは「航空連帯税」をいち早く導入した。飛行機はボーダーレスな乗り物である。資源もグローバルに消費する。しかも金持ちしか使えない(付加価値)。このような観点から、ファーストクラスに六千円、ビジネスクラスで二千円、エコノミークラス五百円の税金をかけた。
 そして、そこで得られた税収を、ODAに組み込んだ上で、国連ミレミアム開発目標の貧困削減(UNITAIDという団体を通じて、エイズや結核、マラリアのための薬代)へと使われるというのである。
 すでにフランス、ブラジル、ノルウェー、チリ、イギリスなどが主導しているが、全体の枠組みである「開発資金のための連帯税に関するリーディング・グループ」には、すでに38カ国以上が参加を表明している。ただし、アメリカやカナダ、日本(2月に超党派が結成)は無反応だったとのこと。
 また、もうひとつ大きなグローバルタックスとして期待されているものがある。
 「通貨取引税」である。
 通貨取引税といえば、トービン税が有名であるが、なにやら改良トービン税なるものが出てきているらしい。僕も詳しくよく分からないので超簡単にいえば、たとえば、「円」に関する為替取引のすべてに超低率(0.00001%とか)の税をかける。そして、為替の変動がある一定の水準(異常)を超える場合には80%とかの超高率の税をかけることにより、ヘッジファンドなどの投機を抑制することができるらしい。つまり、二段構えの仕組みなのである。
 このような「国際連帯税」による税収は、ODAに当てられる。貧困削減のための医療支援に充てられたり、人間の安全保障センター(まだない)の一部に加えられたりするらしい。
 いまだに消費税が上がらず、福祉制度の確立ができずにいる日本。それなのになぜ海外に、という声はあるかもしれない。それでも、と思う。これ以上ODAが減り続けるとしたら国際的義務を果たせまい。国際的秩序の維持は日本の平和にも寄与するし、グローバルに地球資源を使っている以上、グローバルな責任は生じる。そもそも、人権・民主主義を基礎にしているならば、僕らの内なる倫理がそれを無視できまい。日本は、国際連帯税に積極的にかかわっていくべきである。そして、内向きな政治を、僕たち市民は後押ししていくべきである。
 
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 千葉大の上村ゼミは、社会人、学生、誰でも参加できます。先生はとっても素敵。しかも、色んな人が来ていて、面白い。僕の「市民社会のハブであるべき大学」という理想像にぴったりと合致している、シヴィルな空間です。千葉近郊にお住いの方で興味があればぜひともご一緒に行きましょう。

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安全・安心について

 品の安全・安心とか、医療の安全・安心とか、治安の安全・安心とか。なんか耳にタコができるくらい毎日聞くこの頃。正直、うんざりしてきた。
 「安全・安心が大事」っていうのは確かにそうだ。でもそれを「絶対視」して、「安全・安心」があることが「普通」というような雰囲気になっているのは、やはり、気持ち悪いと感じる。(そもそも「安心」は主観的かつ曖昧なもので、自分なりの期待値(納得)を低く設定しない限り獲得困難である)。
 例えば、小松秀樹氏も「医療崩壊」の中で言っているように、医療行為には必ず「不確実性」が付きまとう。100%の安全なんてない。予期しがたい避けがたいミスというのは、必ず伴う。それをすべて「安全・安心」のもとに「医療事故はない」という前提で進めてしまうと、医療行為が成立しない。医者の自己委縮がおこり、いわゆる「立ち去りがたサボタージュ」現象が起こってくる。悲しいことである。
 昨日の夜のニュースによれば、エスカレーターで一歳の女児が転倒し、指を切断されたという。
 8日午前11時半ごろ、神奈川県平塚市東中原のスーパー西友平塚店地下1階のエスカレーター前で、同市万田のパート松永麻美さん(28)の長女茉衣花ちゃん(1)が転倒、下りエスカレーター前端部と床面のすき間に手を挟まれ、左手の薬指を切断した。県警平塚署は事故の詳しい状況を調べているが、店側の管理に問題はなかったという。 調べによると、茉衣花ちゃんは両親が目を離したすきに、上りエスカレーターに乗ろうとして、並んでいた1階と地下1階を結ぶ下りエスカレーターの前で転倒した。茉衣花ちゃんは両親と一緒に買い物に来ていた。(時事通信より)
 悲しい出来事であり、非常に気の毒ではある。
 ただ、こういうことって必ず起こりうることである。どんなに安全性を追求しても、不確実性はつきまとう。「転倒」だって時たま起こりうる。100%の安全なんてない。
 そのテレビニュースは、記者会見の中で、西友の責任者が謝罪している場面を淡々と映していた。「善」と「悪」でいえば、間違いなく「悪者」のフレームで。彼だって言いたかったんじゃないか。「100%の安全なんてない。1歳の女児が転倒して偶然指が引っかかることなんて想定していない。女児を1人でエスカレーターに乗せるのがおかしい」と。

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「靖国」と政治的中立性

 画・「靖国 YASUKUNI」が、東京では放映されないというではないか。びっくりである。
 以下、MSN産経より抜粋。
 靖国神社を題材にしたドキュメンタリー映画「靖国 YASUKUNI」について、東京都内の映画館3館と大阪市内の1館が、4月12日に予定していた上映を取りやめたことが分かった。これで東京での上映予定はすべて中止となった。
 上映を中止した銀座シネパトス(東京都中央区)を運営するヒューマックスシネマは「近隣の商業施設に迷惑を掛ける恐れがあるため」と説明している。ほかに取りやめた映画館は、シネマート六本木(東京都港区)、Q-AXシネマ(同渋谷区)、シネマート心斎橋(大阪市中央区)。

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 今回の問題の大きな争点として挙げられているのが、「政治的中立性」である。
 文化庁からの助成金を受けていることから、自民党の一部の議員たちは、「政治的に中立でなければいけない」として、この映画に対して疑義を表明したとのこと。そして、映画館は「右翼からの圧力があると困る」「お客さんに迷惑がかかる」みたいな理由で、上映を取り消してしまったのだと。
 そもそも、この「政治的に中立でなければならない」というのが、僕にはよくわからない。
 だって、「表現の自由」とは、たとえ、政治的に偏っている意見であっても自由に発表できる、という権利じゃないか、と。極端にいえば、悪論ですら発表できることが、表現の自由を表現の自由たらしめているのである。昔のどこぞの哲学者も言っているではないか。「私はあなたの意見には反対するが、あなたがその意見を表明できる権利については、徹底的に擁護する」と。
 かつて、ノームチョムスキーは、ナチス・ドイツを擁護・正当化する言論においても、「表現の自由は担保されるべきである」と言って、反論、賛成の議論を呼んだ。
 個人的には、ナチスドイツの正当化のような、明らかに事実が歪曲されている部分についての「表現の自由」は認めることはできない。が、その「事実性」について、解釈の多様性が存在する場合には、僕は徹底的に「表現の自由」を擁護するべきであると思っている。
 その点からすれば、今回の映画上映について出された疑義=「政治的に中立でなければならない」という命題自体が間違っている。助成金を受けたから受けなかったの問題でもない。
 しかも、である。
 その発表する媒体は、「映画」である。なんたって、「映画」である。
 僕だって、これをテレビ放映するといえば、それは確かに難しいかなと思う。だって、テレビは「圧倒的に影響力がある」から。そういう番組を見ることは、前提知識がない人たちにとっては、ある主の先入観を与えかねない。だからこそ、テレビには「放送法」という縛りがあり、「政治的に中立でなければならない」という規定があるのである。
 でも、テレビと映画はまた別の問題なのである。
 映画を見に行く人は、わざわざ時間とお金を使って、ある程度の覚悟を持って見に行くのである。だから、テレビのような影響力の大きさを勘案する必要もない。つまり、「政治的中立性」についてはある程度、許容された幅の広い表現ができる媒体のはずである。ドキュメンタリー系の映画はとくに。
 僕が残念というか不甲斐ないと思ったのは、自主規制に踏み切った映画館である。
 
 映画という「表現中の表現」を扱う組織としては、あまりにも情けない、と思う。

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グローバル化の正体―教育の一致―

 3月31日の朝日新聞・朝刊に、フランス人の人類学者エマニュエル・トッド氏のインタビューが掲載されている。内容は、トッド先生の近著の「文明の接近」ついてである。すごくわかりやすい面白い視点だったので、ここに簡単にまとめるのである(このインタビュアーのまとめがあまりに完璧すぎて自分なりにまとめるところが全然ないのだけど…)
 エマニュエル・トッドは次のように言う。現在、世界各地で起こっている「文明の衝突」のような紛争や対立は、近代化の発展過程で必然的に起こってしまう「発熱のようなもの」である。そして、近代化がさらに深く進行すれば、「社会は平熱を取り戻す」と。
 (もちろん、彼も、近代化が進めばすべて上手くいくと言っているわけではない。文明は一致するのではなく、あくまで「接近する」といっている。国家はそれぞれの価値や制度を持ち続けるし、対立や紛争は継続して起こり続けるという)。
 この彼の見解で最も刺激的かつ独創的なのは、「近代化」とは「何よりも識字化(教育)の普及」であると言い切っているところである。
 
 「読み書きは単なる技術ではない。人間の精神形成に深く関わる。ひとりで本を読めれば内省が可能になる。それは精神の構造を変える。近代的な人間の登場だ。彼らは社会の権威関係を揺さぶる。一部の者だけが権威を独占するのが難しくなり、経済的発展や政治の民主化が促進される」。
 そして、イスラム世界でも中国でもインドでも、「識字率(教育)の向上」により、同様の道をたどっていると述べる。
 「だいたいイランで今起きているのは宗教保守派と非宗教はの対立だ。表面では神をうんぬんしていても、水面下で起きているのは、政教分離の動きだ」。
 「イスラム世界だけではない。中国の経済成長の加速は共産主義を清算したからではない。共産主義的経済構造が発展を阻害していたとは思うが、中国が十分な識字率にまで到達したことの方が重要だ。インドの成長も加速したのは経済改革の前からだ。むしろ識字率の上昇と一致する」。
 「グローバル化とは呼ばれるものは、識字化が世界に行き渡り教育レベルが一致したときに達成されるのだろう。私たちはあまりにも経済的な考え方に支配された時代に生きているので、経済自由主義の広まりをグローバル化と同一視がちだ。しかし、歴史を動かすのはむしろ教育だと思う」。
 これらは考えてみると、すごく面白い指摘である。
 トッド先生の説に沿った政策を立案すれば、非民主的な地域や国家主体に対しては、とにかく、学校や図書館を建てまくり、教育を普及させまくればよいということになる。貧困に対する産業的な手当てとは別にして、むしろそれよりも、とにかく「教育的支援」を何よりも優先させればよいのである。
 もちろん、そんな簡単にはいかないだろうけれど。
 

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ギョウザとメディア②

 HKスペシャル・「食品の安全をどう守るのか~冷凍ギョウザの波紋~」を見た。
 僕の個人的な、あくまで個人的な感想を書こう。
 はっきり言って、満足はできない番組内容だった。取材内容やその構成などについては、かなりの綿密さに感動したのだが、それだけに残念かつ問題だったのが、さかしら顔でコメントをするゲストの一人、元生協職員で、現在は消費者団体の事務局長の女性である。この人の発言は、素人である自分にもわかるくらい、はっきりと瑕疵のある、現実を歪めて伝わってしまうものだった、と思う。
 ①まず、番組の頭で、餃子事件の予兆と経過を次のように時系列的にまとめて伝えていた。「JTフーズと生協coop」による最初の中毒患者が明らかになったのは、12月28日である。しかし、すでに10月、11月の段階で、3件の「異常報告」が伝えられていたのである。それにも関わらず、JTフーズと生協coopは、主だった対策をとることなく、それ以後に中毒が起こることを防げなかった。しかも、その事例の報告と時を同じく、他の「異常事例」がJTフーズにも伝えられていた。それらの情報について、生協とJTフーズは「共有」することがなかったというのである。
 番組では、その「情報共有ができなかったこと」については、「企業秘密の壁」があったため、「情報共有は困難だった」として、それ以上深く追求することはなかった。上記のゲストの女性も、「それは難しいですね。協力して共有してほしいですね」として、簡単に流してしまったのである。
 これは普通に考えてみると、おかしい。だって、「異常事例」が出ているのだから、それについての情報を共有するのは当たり前のことである。JTフーズの商品を売っている生協が、JTフーズに対して、「その商品の安全はどうなっているのか明らかにせよ」と言えないことは、「普通には」、ありえない。(だから、それをしなかったということは、この二社の責任は圧倒的に重いと思わざるをえない)。
 おもうに、この番組が切り込むべきだったのは、「なぜ企業間の情報共有が困難なのか」についての現場検証であった。それを報じてこそ、今後のためになるし、「企業秘密だから難しいですよね」、では、今後の安全性の確保に発展はないであろう。だって、日本の食品流通の特徴(問題)は、小売、流通、生産とすべての段階において、異なる別の企業が担っていることにあること、つまりは「情報共有をどうするのか」という点に大きくあるのだから(これまでの国産偽装の問題もそうであろう)。
 (もちろん、番組では、その次の話題で「アメリカの行政主導による、企業間の情報共有を経ずに中毒を発見できるCDCという仕組みについて説明していた。だから上記の問題について「深く」説明しなかったということは、理解できないことではない)。
 
 ②僕が驚いたのは、このゲストの女性が、あまりにも現在の食品流通の現場に無知ということである。アメリカの仕組みについて、単純に「素晴らしいですね」と礼賛したり、日本の食品メーカーの中国での徹底的な管理体制について、「こんなにしっかりやっていたのですね」などとのたまわったり…。
 もう一人の専門家の男性が発言していたように、またVTRでもメーカー企業の取り組が流されていたように、中国から日本に輸出される加工食品の管理レベルは日本と同等か、その企業によっては、日本の管理レベルよりも断然に高いといえる。
 もちろん、先週、テレビ朝日の報道ステーションが報道していたが、農村によっては全く管理できず毒の農産物が蔓延しているところも多数あるのだろう。だが、「農村に毒食品が存在すること」と「日本用に管理された加工食品が輸出されること」は全く別の次元の問題のはずである。それなのに、ろくに取材もせずに先入観だけで意見を言う、この女性ゲストみたいに、ごちゃまぜにしてしまうから、恐怖が煽られるのである。
 ③もうひとつ、番組内で、「問題なのは、利益追求に躍起になり、消費者抜きの議論をすることである」という、視聴者からのアンケートを紹介していた。こういう言葉をマスコミは好んで使用するが、この「消費者のために!」というキーフレーズは、僕は一面的な消費者エゴでしかないと思っている。この消費者エゴという言葉は、神門善久氏の「食と農~危機の本質」で使われていた概念である。
 つまり、利益追求のために消費者抜きになるのではなく、消費者のためという美名のもとにドンドン価格を吊り下げ、適正価格を見失って暴走したあげくの果てがいまの状況なのである。ゲストの女性が最後にのたまわっていた、「安全は絶対ですが、消費者のためにできるだけ低価格で提供を」という言葉は、本質論を無視した体の良い言葉でしかない。どれだけの作業が、生産・加工の段階で費やされているか、まるでわかっていない、結局は、小売(生協)の側のわがままである。
 番組内容も、男性ゲストも素晴らしかっただけに、この「生協の代弁者」みたいな女性ゲストをコメンテーターとして使ってしまったことが、残念で仕方ない。といっても、ディレクターの役目は、信頼できるゲストを揃えることからスタートすると思うので、やはり、その点は落ち度があったのであろう。
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 さてさて、4月1日から、主にメディアコムの有志のメンバーとともに、「食とメディア」に関する勉強会を行っていきます。最初は、「餃子事件」についてのメディア報道に焦点を当てて、徹底的にその問題点をあぶり出します。そして、それを5月中旬に講演会イベントとして発表する予定です。新聞・テレビ報道を分析し、メーカーに取材も行い、それらを上手くまとめ、最高の成果を披露したいと思います。また日にちなどをご連絡するので、ぜひぜひ見に来てくださいませ。よろしくお願いします。

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「チェルフィッチューフリータイム」

 ェルフィッチュの「フリータイム」という演劇を見てきた。今回で三回目なのである。
                    
 チェルフィッチュの独創性は、そのアンチテーゼ的な演劇作法にあるといわれる。
 つまり、過剰に無駄な身体の動きと、過剰に無駄な言葉の使い方である。普通ならば絶対に「噛まない」、「口ごもらない」、理路整然としたセリフ回しを、あえて、「噛みまくり」、「口ごもり」、「主語と述語をずらし」ながら、役者に言わしめる。しかも、手足や体をだらだらさせながら。
 その目指すところは、日常のコミュニケーションを徹底的に描き出すこと。「だって、人間の会話って、そもそも理路整然していないじゃない?」という思いが、チェルフィッチュ・岡田さんにはある。だから、人間の本来のコミュニケーションの「混沌性」を復元しようとするのである。
 だが、ここに困難がある。普通に人間の日常をだらだらと描いたところで、面白くない。そこには何らかのドラマ性(非日常性・事件性)を付与しない限り、人々の視聴には耐えられないのである。かといって、そこにドラマ性を付けてしまうと、それは「日常性」を毀損することになる。
 日常の日常性を、わざとらしいドラマを押しつけることなく純度を保ったまま表象するには、どうしたらいいのか。この解きがたいアポリアに対する回答を、「何とない身体の動き」と「何とない言葉づかい」の、「過剰な」表象に求めたのである。
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 今回の演題は、「フリータイム」。つまり、「自由」である。
 登場人物は、女性二人。ファミレスで働く、西藤と、派遣会社で働く、古賀。
 古賀の日課は、出勤前の30分間、ファミレスで過ごすこと。テーブルの上に広げた白い紙に、ボールペンで丸い円をグルグルと描き続けること。それが彼女の、誰にも毀損されることのない、自分だけのフリータイムである。
 古賀の様子を見ながら、ウェイトレスの西藤は妄想する。
 「このよく分からない行為は、この人にとっては特別なことなんだ」。そして、もしも、と夢想する。「彼女がこの30分間をもっともっと過ごしたいと思ったら、どうなるのだろうか。彼女がそのまま会社に行かなかったら、彼女はどうなるのだろうか」と。
 一方、古賀は、ボールペンで円を書き続ける。そして、次のような思いに駆られる。―じぶんの存在の重さを試してみたい、と。
 「たぶん、わたしがいなくたって、会社は困らない。そもそも、私が来ていないことすら気がつかないんじゃないか……だったら一度くらいは…」。
 さあ、どうなるのか、と思ってみていると、結局、何にも起こらない。ボイコット計画は、二人の妄想のなかで実行されることなく終わってしまう。ボールペンが、ただただ丸い円を描き続ける、だけ。
 僕は思った。
 このような妄想たくましい時間、それこそが自由を示している、とは言えまいか。「自由」と「労働」は、トレードオフの関係ではない。この両者を対立的に考えてしまうことから自由になること、それこそが、自由になることなのである。たぶん。

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海士アグリベンチャー記録

 どーも、海士アグリベンチャーツアーから戻ってきました。
 身体を動かし、美味い飯を食らう、という果てしなく健康な毎日。つねに白いご飯3杯は食べてました(太ったなぁ)。そもそも後鳥羽上皇が流されたのも、海士が豊饒な食文化を有して、食料の不安がないところだったからとのことです。納得。自分で取ったもの、自分で作ったものを、自分で食べる。自給自足、最高の贅沢だなあ。
 さてさて、海士のネット新聞「週刊amana」に僕の感想を書かせてもらいました。「僕がどう感じたか」を中心でいいということで、勝手気ままなライティング。しかもなぜか写真つきっていう(笑)。
 以下、写真を載せて解説します。
          
           鬼太郎で町おこしに成功している、境港。ここから隠岐へ。
          
           海士町に着きました。参加者のみんなと写真撮影@明屋海岸
         
          
         
   2日目。炭焼きの体験。かまに薪を入れます。入口までいっぱいに敷き詰めたら、1メートルほどの空間を作りながらレンガで挟み込む。そのレンガの間の空間に、木をくべて煙だけ中に入れます。火が直接に中の薪にうつってしまうと、ただの灰になっちゃうので、調節が大変なのです。ほぼ丸2日ほど、ひとが見続けないといけないそうです。
          
                   夜は、バーベキューパーティー☆。
      
          
           
   3日目。地域のブランディングの目玉のひとつ、隠岐牛の視察・手伝いです。公共事業の縮小で行き詰った地元の飯古建設(潮風ファーム)が、「構造改革特区(法人が農地を所有できる)」を利用して、農業(畜産)に生き残りの活路を見出しました。今では、月10頭ペースで東京へ出荷し、松坂牛や神戸牛と並ぶAAAの評価を得るまでになったとのこと。NHKスペシャルでも放送されていましたね。頬が溶けてしまうくらい、柔らかくて、むちゃくちゃ美味いっす。
  
   
          
                 牛が普通に道にいます。通せんぼされました。
 
           
 
               午後は、塩づくり。場所の名前は、宴塩会。
 
            
   塩づくりは、話を聞くだけなら、簡単そのもの。だって、海水を火で沸かすだけ。30キロ作るのに、1トンの海水が必要になるらしいです。でも、これも丸1日以上、ずっとひとが手を入れていないといけないので、大変です。でもでも、自分で手を入れて作った塩は、美味でございました。
           
  4日目。定置網漁に連れていってもらいました。朝の4時30分に出発。真っ暗ななか、沖に向けて船がゴゴゴゴーと音を鳴らして進むのであります。今回の定置網では、二台の船で挟み込み。網をどんどん狭めていって、最後に一気に揚げてしまうのです。アジ、メバル、イカをたくさん捕獲。
           
            イカをさばいてくれる船長。 透明感あり、しゃきしゃきあり、ウマすぎ。
           
           
  5日目は、田んぼの「荒おこし」と「草刈り」です。トラクターを運転させてもらいました。1年のときに免許を取って以来のペーパードライバーだったので、大変でした(汗)。5月に、米の種付けをして、6月くらいに水を入れて苗付けであります。東京に直売店があれば、絶対に買っちゃうよな。
   
           
           
  6日目。一橋大学の4年のとき、海士の但馬屋(旅館&漁家)のおじちゃんと出会って修行を決意した、宮崎さん。彼が去年、「但馬屋」という法人を作りました。その事業内容は、干しナマコの販売。これまでは、乾燥まで至らなかったナマコ。その加工を、今年から工場も作ってやるというのです。宮崎さんは、最終的には、それを中国に逆輸出できないか考えているという。ここでは、ナマコの腹を割って、泥を吐きだし、コノワタという内臓を取り出す作業をやらせてもらいました(電池が切れてその写真ないのです。残念)。最初、気持ち悪ぅと、ちょっと思ったけど、徐々にナマコに愛着が出てきます。
            
           
           
  いわがきの養殖場です。普通のスーパーで売っているようなカキの3倍くらいの巨大なカキを作っています。遺伝子を貝に詰めて、海水に下ろして、二年弱。みるみるうちにでっかくなります。おっきいのはひとつ800円(?)とか。これをCAS(Cells Alive System)という細胞を殺さずに鮮度を保ったまま輸出できるという加工技術により、本土の市場へと出されるのであります。テレビ東京でもやっていましたね。その場でいただく。プリンみたいなツルツル感の歯ごたえ。ウマすぎです。
           
  今回ずっとお世話になった、自然村の前にて。館長の深谷さんは、料理のエキスパートだけでなく、バードウォッチャーです。山、鳥、虫、自然環境のプロです。お世話になりました、とさ(^^)

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隠岐島に行ってきます。

 明日から3月8日まで、島根県隠岐島の海士町に行ってまいります。今回は海士町の産業創出課と人間力推進プロジェクトが、バンタンという会社と提携して、「海士アグリベンチャーツアー」なるものを開催するのです。農業、漁業、林業。第一次産業のすべてがある海士で、地域と食の問題を考えてきたいと思います。そして、これから農業を復活させる仲間を作ってきたいと思います。
 帰りは、ヒッチハイクで戻ってくる予定。問題がなければ、9日には帰っているはずです。
 ではでは、よろしく。

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21世紀の農業③とやま

             富山バスツアー① 富山バスツアー②
 山バスツアーでのゲストとして参加していた、湘南(SFCの横)で養豚場を営んでいる、みやじ豚の宮治さん。ツアーの中でもみやじ豚を焼いてくれたのだが、これが、むちゃくちゃ美味い。なぜ美味しいかといえば、もちろん手塩にかけて、手間ひまをかけて、育てているからである。
 宮治さんは、「第一次産業を、『かっこよく、感動できて、稼げる』という3K産業にしたい」という。父親が養豚業を営んでいたこともあって、SFC時代から友達を集めて開催していた「バーべキューパーティー」。そこで言われた「お前のとこの豚、むちゃくちゃ美味い」という言葉は、ずっと彼の胸の奥底に引っかかっていたという。そして、SFCを卒業後、パソナに務めた後、「みやじ豚」をイチからプロデュースすることを決意する。「第一次産業を活性化させたい」という使命感を抱きながら。
 「従来の農業の問題は、消費者の顔が見えなかったことだ」。
 みやじさんは、旧来の古いやり方を批判して、新しい農業のあり方を提唱する。「生産から出荷までプロデュース」が、彼の合言葉だ。これまでの生産者(農家)は、消費者と分断されていた。生産物は一括して「農協」に買い取ってもらい、それがどんな消費者に届いているのか感知することはなかった。極端にいえば、農協から要求されるがままの規定の生産物を作るだけのロボットであり、特別に消費者を意識することも創意工夫することもなかった。それが、すべての根底にある問題だったのだ、と。
 土遊野農場の橋本順子さんも「川上から川下まで」と主張している。つまり、生産だけでなく出荷までをプロデュースするということである。原料だけを生産し、あとの流通を農協に丸投げしてしまうと、価格の決定権はない。しかも農協は規格に合わないと受け付けない。少しでも虫に食われていると買い取らないのである。このような不条理かつ不合理な経営体制を打破しなければならない。だからこそ、21世紀型の農業は、自分で生産・出荷までをプロデュースできる、「かっこよくて稼げる」経営感覚を持った人間が担うべきなのだと、彼らは訴える。
 もちろん、このような流れのなか、農協や中間業者に頼らず、生産者と消費者を直接につなぐ「直売店」が増えている。特にこの直売店は、「地域のモノを地域で食べる」という意味において、また、地域主義を促進させる「地域のハブ」としての役割も期待されている。悪玉にあげられがちな農協も、自ら「直売店」を作り、変革をアピールしているともいう。
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 現時点での農業のもっとも大きな問題は、十分な耕作地が利用されていないこと、つまり「農地」を巡るものであると柴田明夫氏は述べている。。氏いわく、がちがちの規制緩和により、耕作地の集約化(大規模化)を図り、経営感覚に優れた農家や法人(プロ)を参入させることである。
 大規模化についてはいろいろ是非はあるだろうし、僕としても整理できていないところであるが、上記に挙げたような生産・出荷までを担える経営感覚を持つ「プロ農家」を育てるという点については全くの賛成である。だが、根本的な問題は、では、どのようにして「プロ農家」を育てるかである。規制緩和をしたところで、そもそも担い手となる人間や企業がいない。採算として取れるかもわからない。このような困難な状況はおそらく今後も続いていくと考えられる。
 だからこそ、重要なことは、ある種の「使命感」を持った人間をどれだけ育て増やせるか、という点に戻ってくる。人材普及のために何をするべきか。ここに「富山バスツアー」のような意義が滲み出てくる。すなわち、都市と地方(農村)との交流をさらに増やしていくことから、できるだけ参入へのアクセスを増やしていく。あるいは学校単位での食育を増やしていく。そして、このような草の根の動きを政府も支援していく―。地道だが地に足のついた運動を継続するしかないなと僕は思う。

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夢の自給自足の生活②とやま

 スツアーの最大の目玉は、富山市の山奥の土遊野農場の見学だった。そこの橋本順子さんというお母さんがものすごいパワフルで、魅力的で、チャーミングで、参加者はみんな惚れてしまった。土遊野とは稲作、養鶏、ヤギの飼育、そのほか野菜まで作っている、まさに自給自足の農場空間である。しかも、ニワトリの飼料には輸入とうもろこしを使わず、学校給食の残滓や米のわらなどを戻して使っているため、限りなく自然に近い「循環型の農場」でもある。
           
           
 午前中に行ったとき、ちょうどニワトリが卵を産んでいた。カゴの前で何十分も粘ったすえ出てきたニワトリの卵は、湿っていて温かい。橋本さんは「いのちの温もり」という。この卵を実際にいただいたのだが、なんと色が白い。なぜかというと、輸入とうもろこしの飼料を使っていないからである。生卵として食べられなかったのが残念であったが、本当にふんわりとして美味しい卵だった。
 首都圏に住んでいた橋本さんが富山にやってきたのは、20年以上前のこと。森林に対する除草剤の空中散布に反対して結成した「草刈り十字軍」という草の根運動がきっかけだという。そこでご主人(東京の人)さんと出会い、結婚して、一緒に富山に移ってきた。「人間は他の生き物をいただくことで生きている」。この「当たり前の生き方」を、自分たちの手と足を使いながら実践してきたのである。
 ぼくが感銘を受けたのが、「教育も福祉も農業も同じ。すべて『いのちの大切さを学んでいる』」という言葉だった。かの地では、自給自足を軸としているので、何か食べたいと思ったら、自分で取ってくるのが基本だ。唐揚げを食べたいと思ったら、ニワトリを取ってきて、自らの手で殺し、そのことに感謝をしながらいただくと。
 かつて、暗黒舞踏で有名な土方巽は、舞台上に「ニワトリ」を引っ張り出してきて、それをゆっくり握りつぶすというパフォーマンスを行った。そして、それを見た観客は次々と嘔吐を催したという話が残っている。これは1つの極端な例ではあるが、僕たちは、自分が食べるものの、原材料収集から加工の工程について全く知らないで生きている。「いのちをいただいて生きている」ということに無頓着に生きている。そんな暮らしにNOと叩きつけてくれたのが、橋本さんだ。
 橋本さんは「東京こそ、限界集落だ」という。「なるほどそうかもしれない」。こうして東京に住んでいるのに、合点納得してしまう僕は、一体何なのだろうか。僕は将来、どこに住んでいるのだろうか。悩みは膨らむばかりである。

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