ルキーノヴィスコンティーの『若者のすべて』(原題ロッコとその兄弟)を見た。
成功を夢見てイタリアの南部から都会のミラノに出てきた家族6人(母と息子5人)。兄シモーネは、お金を稼ぐためにボクシングを始める。弟のロッコ(アラン・ドロン)は服飾の仕事に付き、4男のチッコは学校で勉学に励む。毎日は順風満帆に、ゆっくりだが確実に前へと進んでいた。
そんな平穏を破滅へと導くことになったのは、ある女(ナディア)の出現だった。
ナディアに熱を上げるボクサーのシモーネは、練習をサボり、デートに明け暮れ、有り金をすべてを彼女につぎ込むようになる。その後、奔放な性格の彼女が彼の前から消えてしまうと、シモーネはボクサーとして落ちぶれる。その数年後、弟のロッコが彼女と再会し、今度は二人が恋に落ちてしまう。そして仲の良かった兄弟の間に、少しずつ亀裂が広がっていく。
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この映画を見て思い出したのは、フランシス・コッポラの代表作『ゴッドファーザー』である。
ゴッドファーザーは、イタリア(シチリア)のマフィアの話であるが、その壮大な物語のテーマは「いかに家族を描くか」―家族の一人ひとりの特徴をどのように浮かび上がらせ、その個性がどのように衝突し合い、どのように家族が変容していくか―であった。
南欧とアジアというのは、世界的にも家族主義が強い地域として知られる。例えば、公的な社会保障制度が出来るのに時間がかかったのは、「カトリシズム」と「儒教」という違いはあるにしろ、ともに個人主義よりも家族主義の思想が強かったためである。
ただ、家族主義と一口でいっても、日本映画とイタリア映画では質的な違いがある。
イタリア映画では家族内の対立や齟齬に迫力がある。単なる「親」と「子」の垂直的な関係でのぶつかり合うというよりも、「兄弟」における横の関係をすべてひっくるめてぶつかり合う。日本の家父長的な「父」と「子」の対立だとすると、イタリアの映画では家族対立の幅が広い。ヴィスコンティーのこの映画は「兄弟間」の対立を上手く描き出している。
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こういう昔の映画を見ていると、「いまの日本でこのような家族を描くことは難しい」と感じる。それは別に我々の感性のレベルが低下したからではなくて、ただ単に「家族そのものが無くなった」からである。時代が流れ、家族の形が変わり、家族が消え去った。
そういう「家族無き時代」を象徴するものとして、フジテレビのラストフレンズがあったように感じる。
ラストフレンズでは、ドラマの登場人物が皆、トラウマを抱えており、そのトラウマのほとんどが「家族の失敗」から生じたものとして描かれている(ルカ以外)。このドラマは、冷淡なほど「家族」に価値を示さない。それどころか、「家族」=「悪」が前提とされている。ドラマの舞台が「シェアハウス」なのは、そのことを象徴している。登場人物の「トラウマ」は「家族」ではなく、「友達なるもの」で修復される必要があったのだ。
最終回で、妊娠状態のみちるを見捨てて男と引っ越していく母親。その母親の代わりに銚子にまでみちるを助けにくる友人タケルとルカ。そのときタケル君はこう言う。
「みちるはどこかで幸せに暮らしているかもしれない。でも、もしかしたら泣いて助けを待っているかもしれない。どっちかわからないけど、とりあえず探しに行こう」。
ラストフレンズでは、ある意味でリアリズムが貫かれていたと感じる。
もう昔のように「家族の復権」を叫んでも意味がない。時代は流れ、昔には戻れない。だったら、現在ある資源のなかで最後の砦となれるものは何か――それは「節度のあるお節介な友人(ラストフレンズ)」だ。おそらく、原作者には無意識のうちにそのような思いがあったのではあるまいか。
「節度のあるお節介な友人」とは形容矛盾だが、実際に、タケルとルカはそんな存在であった。
長い時間をシェアーハウスで過ごしてきた友人であっても、言えないことはある。だからそこには深く立ち入らない。それでも、友人が彼らの前から姿を消そうとすると、彼らはお節介とは分かりつつも「強制介入」を試みる。現在の「家族無き時代」には、友人による「節度あるお節介」が必要なのかもしれない。
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「家族の消滅」は物語なんかを読んだり見たりしていると特に感じるよね。
家族に限らず、自分ではないけれど自分に関わっている何か=他者がしっかり織り込まれている物語はやっぱり面白い。まぁ、それって作る側にしてみたら凄く難しいんだけど。やろうと思っていて出来ないのか、あるいは最初から念頭にないのかは分からんが。
えふたか
「他者が織り込まれている物語は面白い」。まさにその通りだな。人間がちゃんと生きている物語が少なくなっている気がする。自分と彼女の二人だけで閉じた世界観を描いても面白くないのにね。