去年、『安全至上主義とジャーナリズム』というテーマで共同の論文を書いた。その中身は簡単に次のようになる―。1995年(大きくは阪神大震災とオウム事件)を境に、①日本の安全神話が音を出して崩れ始め、人々の体感治安は悪化し不安意識は増大した。その後も立て続けに起こる凶悪犯罪(少年犯罪やテロ)によって不安意識は増大する一方だったが、②国家権力がこのような流れを食い止めようと、個別具体的に法案を作成することで、いわゆる「自由」を制限してでも、安全を確保しようとする動きを強めた。
このような事実を基にして、我々の論文では次の二点に焦点を当てて新聞分析を試みた。①安全神話が崩れるときに立ち会い、ジャーナリズムはどのようにそれらの象徴的事件を報じてきたか。また、②安全を回復しようとする国家の動きに対して、ジャーナリズムはそれをどう報じてきたか――。
結果は簡単に次のようなものだった。個別具体的な事件や法案について、新聞各社の論調はそれぞれ異なった。また同一の新聞においても、時を経て環境が変わることによってその事件や法案に対して論調を変えたり翻したりした。社の分類としては、朝日・毎日新聞が「自由」の侵害を危惧し、国家権力の介入に対して慎重な姿勢を見せたが、他方、産経・読売はそれとは逆に、目の前の危険を除去するためには、ある程度の自由が侵害されても仕方がないという立場だった。
我々の考察としては、『自由』を金科玉条のごとく叫び立てる朝日・毎日の論調を、自由と国家権力の関係をあまりにも古典的に捉えすぎているのではないかと結論付けた。一方、産経・読売の論調を、世論の流れに沿う形で水を得た魚のようになり、国家権力の監視という役割を忘れ、盲目的になっていたのではと考えた。(…ただし、これはあくまで単純化した結論…詳しくは論文をばよろしく)
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かつては、『国家からの自由』そして『国家権力VSジャーナリズム』という形で、ジャーナリズムは権力に対する対抗軸として考えられていたが、いまでは、『権力の監視』をうたうジャーナリズム自体が『第四の権力』と言われ揶揄されるようになってきた。(浅野健一氏の「犯罪報道の犯罪」などに詳しいが)自らのその強い影響力に無自覚になったジャーナリズムは、過剰な報道や人権侵害などの報道被害の問題を引き起こすようになった。そのため、その巨大化し暴走するジャーナリズムを止めるため、国家権力によって押さえ込む必要性も議論され強まってきている。
そのように『国家権力によって、ジャーナリズムの“暴力”から個人を守る』というような側面、そしてそれを敷衍すれば、「国家が「利益」を与える存在として理解される側面が増えてきている」と伊藤高志氏 は述べ、それを「国家による自由」の概念から説明している。
「国家による自由は、国家が市民社会に積極的に介入することによって、社会的弱者が人間的な生活を営めるようにすることを意味するもので、一般に社会権に基づく自由である。国家からの制約がないという『形式的自由』が保障されても、著しい不平等が放っておかれて、いつ蛾死するかどうかもわからない状態では、『形式的自由』は実質意味を持たないだろう。市民社会に国家が積極的に介入することによって『実質的自由』を確保する、これが『国家による自由』である……」「そうした状況においては、ジャーナリズムは伝統的な自由主義的観点から、国家による市民社会への介入を批判するという役割のみに甘んじるわけにはいかない。ジャーナリズムはときには、国家による市民社会への介入を後押しし、その政策を支援する、といったことが求められる時代になっている。」(『ジャーナリズムと権力』共著、世界思想社)
『国家からの自由』と『国家による自由』の狭間において、ジャーナリズムは分裂せざるをえない。その中にあって、国家に組み込まれながらもそこから離脱していく必要がある。そういう事態にあることを自覚し俯瞰したうえでその時その時の個別具体的な問題に対処しなければならないのだ。
上記の議論を『自由と安全・安心』の文脈もう少し詳しく見てみよう。今までは『自由』というものが常に国家(地域)という大きな存在によって、ある意味『絶対的に』侵されていた。しかしフランス革命以後、自由や平等といった普遍的な諸概念が生まれるようになると、デュルケムの宿命論的な状況は先進国においてかなり改善されてきた。現在、自由はかなりの程度保障されている。暴力的な革命運動や反政府運動などを共謀しない限り、我々が普通に日常生活を営む上で、露骨に自由を侵すような種類の『国家権力の介入』はほとんど見当たらなくなったと言ってよいだろう。
さらに重要なのは、その国家権力の種類自体が変わってきたことだ。『権力』と一口に言っても、現在のそれは必ずしも『国家』に一元的に集中しているものではなくなってきている。例えば、地域の『安全見回り隊』がそのひとつだ。市民が自ら自発的に安全・安心を確保しようと運動を起こし始めていて、国家権力の側もそういう市民運動に乗っかる形で渾然一体となってきている。また他方で、科学技術の発達を背景にした、コンピューターによる個人情報の管理、趣味や購買趣向などを収集しデータ化してのマーケティング利用などの情報操作。そのような直接不快感を与えない形で、『不可視の権力』が行使されつつあると考える研究者たちもいる。「何かが奪われている気がするが、奪われている当のものを実際に指し示すことができない」 (『自由を考える』NHKブックス) そういう目に見えないように『自由』が侵されつつあると大澤真幸と東浩樹は述べている。
もう一度言おう。、『国家による自由』から見られる国家の市民社会へのコミットメントは、必ずしも剥き出しの権力という形態を取らなくなっていて、その介入の仕方は、より複雑化し市民社会の活動と一体化してきている。まさに権力の主体が不明瞭不分明化してきているといえよう。圧力を加えている主体は見えないが、何か圧力が加えられている。そのような『不可視の権力』が知らぬまま行使されているのだ。
『監視管理』という文脈の中で、ミシェル・フーコーは社会においてどのような権力が作用しているのか細かく文節化し言語化しようと試みたことで知られている。また社会学者の渋谷望 は、フーコーの研究を踏襲する形で、大きな国家『福祉国家』から小さい国家『ネオリベラリズム』への移行を、権力ゲームや消費社会、リスク管理などの用語をもとに分析しながら、『権力のテクノロジーは必ずしも介入をやめたわけではない』と説明している。ネオリベラリズムが要請する自立の論理や自己決定の倫理は以下のようになる。
「個人は自分の運命に責任をもつ。個人は現在の行動が自己の将来にいかなる影響を与えるのか計算下上で行動をすることが求められる。たしかに、ここでは、個人の運命に対するケインズ主義的な積極的介入は、むしろ「依存」を作り出すものとして忌避される。しかし、介入それ自体はなくなっていないことは、ここにあげた専門家の言説――「リスクを管理せよ」――の増大それ自体がその証左である。むしろ介入のテクノロジーは、その方法を変化されることによって、権力や決定権を個人の側に委譲する一見ポジティブな動きと並行しつつ、現在も生き延び、むしろ増大しているようにさえも見える」(『魂の労働』「青弓社)
渋谷は、例えば、健康管理の領域にそれを見出す。
「健康管理における自己責任の強調は、従来の<病人/健常者>という二項対立的な役割を『脱構築』し、その境界をきわめて曖昧なものとする。これは病院をベースにした、社会保障的な権利による『治療』による回復という、健康へのアクセスの標準的ルートが狭まると同時に、健康な者も日常的なレベルで定期健診や予防行動―タバコを控え、健康的な生活をおくること―が要請されるからである。ここにおいて専門家は治療というよりも、健康な個人の日常生活をターゲットとし、予防を志向するようになる……」
つまり、ネオリベラリズムの要請する自己責任論が強化されることによって、医者と患者が『こちら側』に位置に立ち、協力して『あちら側』の敵(病気)と闘うという物語が壊されるのである。病気はいまや、我々の外からやってくるものではなく、我々の内から発生するものだと考えられるようになった。定期的に検診に行く、タバコを控える、健康的な生活を心がける―などの自己の内なる自助努力によって病気は管理可能であるが、それができなければ病気は(内から)発生するというのだ。
リスクを管理せよ――このような国家権力の介入なき介入が知らず知らずのうちに我々の生活の中に入り込んでいる。ジャーナリズムの役割が「国家からの自由」を守ること、と同時に、時には「国家による自由」を積極的に後押しすることも含まれるになった中で、私が問題にしたいのは、国家の権力自体がその形態を複雑にし、形のないものに変わってきているということだ。いま現在、社会を駆動させているゲームの主体は一体誰なのか。新しい権力ゲームとは何なのか。ここの本質を目を凝らして分析し精査しなければならない。ここを見誤ってしまうと、ジャーナリズムは権力に反対しているかに見えていて、実は権力に取り込まれてしまっているという事態に陥りかねないからだ。
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前の論文で抜けていた点として、
フレーム論を使って「少年の闇」とか報道しまくるマスゴミを批判したけど、
マスコミが「権力批判」というフレームで報道することについて指摘できなかったというのがあるかな…
じゃあ、それならマスコミの役割って何? という疑問が残るのは確か。
以前、メタボリックシンドローム予防の病院施設を見学したことがある。
そのとき院長に、「こうした施設を作ることで、日常の中に病気を内面化していませんか?」的なことを聞いたんだけど、
ポカーンって感じ。なぜならこうした運動をすることで、重大でもっともっと苦しい病にかかるリスクを減ずることができるからだ。
そこにいた老人の利用者はこうも言ったよ。
「年をとると、些細なことで体調を崩すから、日常的な健康意識が大切なんじゃよ。君にはわからないだろうが」
更に、ここが重要なんだけど、その【施設の経営は赤字で営利目的ではない】そうだ。
病人と一般人の間のグレーゾーンを患者に設定し、金を儲けているという批判もこれで出来ない。
ポストモダンのイデオロギーレベルではおかしいなぁと思えることも、
現場に下ってみると、え、そんなの当然じゃん、という反応に出会うことが多々あることから…
ジャーナリズムは、【公正客観的であるために】現場の空気と、イデオロギーの両面から報道していく必要があるのかなぁ、とか思ったり。
その二つが複雑に絡み合って、現在の見えにくい権力ゲームとか感情労働といったものが産出されているわけだから。
>なかとーさん
メタボリックの予防施設の見学……面白そうぉ☆☆
イデオロギーと現場は、やっぱ両面からやっていくしかないと思いますねぇ。上のようにリスク社会の文脈の中で、「あなたたちは無意識のうちに搾取され、虐げられている。自覚しなさい」と声高に叫んだとしても正直、ただの気持ち悪い人ですもんね(笑)。(というか、営利じゃないから搾取じゃないのか!)。
普通の実感から言って、「だって病気は日常の健康管理ができていないからじゃん」という意見に対してはそれはそれで、「うん、そうだよね。その人個人の問題だよね」と納得しちゃいますからね。そこに「騙されるな!!裏には社会権力が作用している」などと言っても、「えっー」って感じですよ(><)
権力批判のフレームは、だから結構、無理があるなぁというのが個人的な印象ですね(おいおいっ)。もちろん報道の側として自覚している必要はあると思いますが…。例えば、国家と自由との関係で言っても、「そもそも、フランス革命以降、『国家からの自由』を確立してしまった現代では、もう自由は確保されたじゃないか。逆に自由は増えてしまった状態なのだから、ある程度、制限したってそれは仕方がないでしょ」という意見のほうが正しく思えるわけですから。ここらへんを、『右翼と左翼』(浅羽通明)がいい具合に記述してくれていて、「たしかになぁー」と思いました。これお勧めですよ☆。
彼は言う。結局、今のポストモダーン的な新左翼は、自由・平等がある程度、確立してしまった中で、さらに弱者を探そうと必死になっている(国内だけではもの足りず、海外のポストコロニアリズムにまで触手を伸ばして…)。しかもそれは正義のためというより、むしろ彼ら自身のアイデンティティーを何とか担保したいがためじゃないのか。「弱者を救済している自己」に浸りたいからじゃないのか、と。
そうやってスパッと書いていて、うううー痛いところつくなぁと僕なんかはヘロヘロになっていたわけです。(いや、弱者を探し告発することはもちろん必要なことだし、そういう人が一定数いることは不可欠だと思いますが…)。
まあよくわからない話になりましたが、振り返れば、去年の論文は出来はどうであれ、勉強になったなぁと思いましたね(笑)。…ことし、どうしよう~~。