教育問題に関する殴り書き

 防衛庁が防衛省になり、教育基本法が改正されそうだ。
 防衛省に関しては、まあよくわからない。
 けれど、教育基本法に関しては何度も言ってきたように、僕は反対の立場である。
http://www.videonews.com/press-club/0607/000898.php
 ↑立花さんがアベ政権について警鐘を鳴らしている。アベ首相自身は右翼ではないが、彼の取り巻きが急進的で、ふとした拍子で転がる危険性があるという。僕もこの危惧を共有する一人である。
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 教育基本法に関しては、基本法という性質上、これは法律ではなく、憲法と同じだと言ってよいだろう。あくまで理念法であり、具体的に批判されるべき項目はひとつも言っていい。「不当な支配」という文言においても、国が教育に介入するのを防ぐという意味では絶対に必要なものだと僕は考える。そもそも国を縛り付ける憲法を国の思い通りに行かないからと、これを書き換えるのはまったく筋違いだ。また改正したあとの文言解釈が曖昧であり、愛国心についてはどこまで介入していくのかわからない。あまりに安易すぎる。(左翼が学校に跋扈しているという批判はあるにしても、それを法で云々するというのはちょっと賛同できない)
 さて法改正に沿う形でイジメや自殺問題が噴出している。だから改正して立て直すべきだという意見も出ている。しかしこれらの諸問題についてはもし仮に基本法を改正したとしても解決しないばかりか、むしろ自体を悪化させる種類の問題だと思われる。なぜならイジメは規範意識の低下の問題というよりも、学校の環境的な構造に問題があるからだ。
 「自殺するのは、最後の逆転満塁ホームランを打とうとしているからなんです」
 社会学者、大澤マサチはそんなことを言っていた。
 いじめられている子供は、逃げるに逃げられない絶望状態において、最後の最後でいじめている子に一泡吹かせたい、あるいは自分に注目を持ってもらいたいと思って自殺をするのだと。
 マスメディアは、しかし、自殺した子を神聖化する報道を行い、さらにホームランを量産する悪循環を生み出している。自殺をなくすには、報道を制限し、自殺を神聖化しない方がよいにも関わらず…。皮肉ではあるが、イシハラ都知事の「馬鹿だな」の一言のほうが自殺の防止にはよっぽど効果があるだろう…。
 さて、本当にイジメ自殺を減らしたいなら、上でも述べたように構造的な制度的な問題を改善するべきだ。これはミヤダイ氏やナイトウ氏が一貫して主張しているように、学校という中間全体主義的共同性を弱体化させる必要がある、ということだ。
 http://www.videonews.com/on-demand/291300/000928.php
 簡単に言えば、今のイジメや自殺は、ひとつのコミュニティーに詰め込まれ、逃げ場のない状況から起因する。毎日、毎日、嫌いなやつと生活を共にしなければならない。ここが一番の問題だ。
 大学にいる人ならば、その素晴らしいユートピア性を実感できるだろう。話が合わないやつ、馬鹿なやつ、ギャル男、そういう人とはまったく接触を持たなくていい。サークルにしても、何にしても、嫌なら逃げ出せばいい。距離を置けばよい。ひとつのコミュニティが消えても、違うところへ行けばよいのである。
 だが、小中(高)学校は、このような環境とはまるで正反対の場所だ。しかも、クラスだけでなく、クラブ活動までもそういう逃げ場のない閉じた環境に置かれている。
 この状況を打破するためには、ミヤダイ氏は、学校を「市民社会」化させ、社会契約の一般ルールを適用しろという。いじめの加害者である生徒を厳罰に処せずに、彼らを未熟という点から保護している状況こそがおかしい。警察は学校には介在させない、と金八先生よろしく叫びたてるが、そういう学校の治外法権化がこれまで問題を先延ばしにし、悲劇を繰り返してきた元凶であるというのだ。
 欧米諸国は、それぞれ差はあるものの、中学の時期くらいから、市民社会ルールを適用させてきいる。フランス・ドイツでは学校はもはや予備校化しており、勉強ができなければ留年もありえる。むしろ勉強させたほうが自殺は減る、自己責任で受験勉強させたほうがイジメは減るという(らしい)。
 学校おける問題児、イジメ加害者に対しての対処として、出席停止処分というのが検討されていたが、結局、適用は見送られたという。「加害者だからと隔離してしまうのは、教育の温情からして認められない」云々の理由であったが、これはまた、加害者優位の先延ばしではないか。
 これは自分の経験上で申し訳ないが、イジメを行う人間というのは、基本的に、自分は間違ったことをしているという意識を持っていない。自分は正義の側であって、空気を乱す相手が悪いのだ。そして、これらをある意味で無意識的に行ってしまっている、というのが僕の個人的な見解だ。
 教育には愛情が必要である、という意見は賛成であるが、それが学校現場でどのような効用をもたらすのかという実利的面では、疑問を持っている。愛情云々の教育は、教師個人の能力に依拠することになる。もし、それが健全に機能しているのならば、これほど騒がれる事態にはなっていないと思う。
 ここは緊急避難的に、加害者を隔離、排除する方向で措置を取るべきだろう。
 学校の市民社会化という側面は、しかしながら長期的な視座から見たら大きな問題を孕んでいる。たとえば、学校という窮屈な中間共同体を弱体化させたとしよう。だが、日本では、イジメは大人の会社社会においても厳然と存在している。自分は経験上わからないのだが、そういう話をよく漏れ聞く。もしそうだとしたら、小中学校の逃げ場のない共同体制というのは、社会に出るための前段階として、ある意味で免疫を付けさせる訓練の場であると、いえなくもない。体育会系の教師よろしく、学校でも耐えられん奴は社会に出ることなどできないと 笑。
 考えていったら何処までいってもラチが開かないので、ここら辺でやめよう。
 いずれにしても、こういう議論がモンカ省や議会で行われているのか、疑問である。行われているかもしれないが、国民には届いていない(再生会議など)。いや、届かせていないだけかもしれない・・・。

ぐし について

スウェーデンのウプサラ大学大学院政治行政学修士取得、欧州議会漁業委員会で研修生として勤務後(-2013年3月)、ブリュッセルでEU政策や市場動向などを調査の仕事に従事。2014年11月から慶應大学のEUSI研究員。千葉市まちづくり未来研究員(自転車政策)。NPO Rights副代表理事として若者政策(主に若者参画)の提言や分析を行う。連絡先:gushiken17@hotmail.com
カテゴリー: つぶやき・殴り書き, 時事ネタ パーマリンク

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