海士町レポート①

 12月30日の朝9時20分、島根の境港市からフェリー『くにが』に乗り込んだ。日本海の荒波に揺られ振られること約三時間、ついに目的地の隠岐諸島『海士(あま)町』に到着した。船を下りると、端から端まで見渡せる小さな島の全形が姿を現した――。
 「これが島かぁ!!」  何度となく漏らすことになる「へぇー」とか「はぁー」の最初の感慨だった。我々は、そのまま役場の人の車に乗って「海士塾」という家に向かった。小さい島と言っても、港と町を行き来するには、やはり車を使わなければならない。険しい山道を右へ左へ揺られて登る。その山をひとつ跨いで下れば、また海岸に沿って船を右目に車を走らす。そうして港から15分、左手に木造建築の家が見えてくる。これが海士塾だ。玄関を出て真っ直ぐ20mも行けば、そこには透明な日本海が広がる、絶妙なロケーションに位置している。
 海士塾には、すでに十人以上の人達が集っていた。囲炉裏がテーブルの真ん中にあり、その横で皆が焼ミカンを食べて寛いでいた。この年末は、みなで大掃除をしたり、餅をついたり、釣りをしたり、海士について「何ができるか」と話し合いをして、夜は酒を飲んで酒に飲まれて、隣の畳の部屋で布団を敷いて寝る―。そんな生活だった。
× × × × × × × × × × × × × 
 そもそもこの家は、役場が外から来た人のために作った施設で、海士を盛り上げようと、あるいは島の雰囲気が気に入り、頻繁に本土から訪れた人達が使っている。特に2006年は役場の人と一橋大の学生が中心となって『AMAワゴン』という名前のバスを東京から走らせ、ハートの熱い学生や講師を島に連れてきては、中学校などで授業をするという活動も始めていた。
 海士町では、人口が毎年減っていき、最盛期では7000人近くいたのが、今では2500人弱になった。地方分権が叫ばれ、交付金が削減される中で、「自分たちで島を何とかしなければ」という思いが役場の中から生まれてきた。町長自らが給料の50%カット、子育て支援の強化、隠岐牛のブランド化、I・Uターン人材の確保など、その改革はいまや他の地域のモデルとなっている。
 そういう人達に刺激されてか、本土から移住者も少しずつ出てきている。例えば、岩本悠さんというカリスマ。彼は大学生のときに世界を流れるように旅をして、それを『流学日記』という一冊の本にまとめ、自費で出版した。去年までは某企業の人材育成などに携わっていたが、「海士が楽しそう」だと会社を辞めて今年の1月に移住をした。とにかく『自分の頭で考える』ことを大事にしている人で、彼と話をしていると、いつも「なんで」「どうして」「どこらへんが楽しい?」という絶妙な投げかけがあるため、何かしら新しい気づきが発見できるし、自分がいかに頭を働かせていないかが露呈される。そんな彼がこれから海士の教育にも携わるというのだから、目が離せない。
 そうして盛り上がっている海士町だが、それでも「大学生が次々と島にやってきて、何か訳分からないことをしている」「役場は勝手に突き進みすぎている」と一般の住民の人に思われないか、という問題はある。島を本当に芯から活性化させるには、その地域の住民の人の理解と参加が絶対に不可欠だ。ゲストハウスやカフェを作るにしろ、イベントをやるにしろ、彼らに認めてもらった上で彼らを巻き込む形で立ち上げなければならない。共同体性が強く残るこの地において、そこは絶対に外せないところだからだ。
 そのためにも両者が互いに胸襟を開いて話をするという機会をもっと設ける必要がある。「外の人間」と「内の人間」が触れ合い話し合うことによって起きる『化学変化』というのは、AMAワゴンのイベントから、予想以上に大きな効果をもたらすことがわかった。島の一部の人は、外からの新鮮なアイディアや考え方を学び、刺激を受けて、「島を何とかしよう」という思いに目覚めた。そういう住民をこれからももっと増えてくれれば可能性は限りなく広がるだろう。(もちろん外の人間にとっても島の創意工夫の生活は新鮮で、刺激的だ)。
 
 ②へ続く

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青春18切符の旅―東京から隠岐まで

 付が変わった12月29日、深夜1時06分。夜行快速の『ムーンライトながら』が小田原駅のホームに入ってきた。黄色線の前には場所取りのため、早くも臨戦態勢の人達が―我らを含め―数十人も列を成して待っている。車内の乗客が、我々を哀れみと好奇の目で見つめる中、ついに、争奪戦の幕が切って下された―。  
 「シャーーー」 電車のドアが開くと、場所という場所を目指して車内に乱れ突っ込んでいく。次の瞬間にはもう荷物を置き、風呂敷を広げ、ドスンと座り込む人々と、戸惑い立ちすくむ人々の姿に別れていた。そこで勝負は決まった。空間(通路)を陣取ればそこが寝床となり、それから6時間を優雅に(?)過ごせるが、負けると残念ながら出入り口で立ちながら寝なければならない。僕ら三人は運よく喫煙席の端へと雪崩れ込むことができた。
                     
 (その瞬間の『明暗』を写真に収めたかったが、カメラを向ける勇気がなかったため、その4時間後、人が少なくなった時間にこっそり撮った。それでもまだ立っている人がたくさんいた↑)。
 「良かった。いい経験が出来た」と笑って話す三人だったが、こんな厳しい事態だとは思っていなかった。青春18切符で『ムーンライトながら』を使えば、夜中に東京=大垣間を通過できる。そのためには指定席を取る必要があるが、この時期は人気があるためなかなか確保できない。それに溢れれば僕らのように小田原駅から『参戦』するしかないのだ。
 大垣駅に着いたのは朝の7時半過ぎだった。雪の影響で電車が遅れてしまい、調べてきた乗換え時刻がズレ始めていた。「ま、大丈夫だろ」と気楽な感じで特に気にしていなかったが、周りを見渡すと、旅格好をした人達はかなりの割合で時刻表を持ってチカチカ調べていたので少しビックリした。
 
 粉のように細かい雪が舞い、風が吹き込んでくる。8時10分、滋賀県・米原行きの電車がやってきた。車両が少ない分、混雑は東京のラッシュよりももっと狭く厳しい。何よりも荷物が体にブチ当たるのが痛かった。
 
        
      (米原の途中に関が原を発見)            (米原駅で電車を待つ人々)    
 
 米原駅に到着したのが9時過ぎ。ここからは一気に京都駅まで突入する。9時30分にやってきた電車に我々が飛び乗ると、農大の人達と座席が一緒になった。料理サークルで来ていて、彼らも関西の『島』へと行くのだという。四年生の人がひとりオカマっぽい雰囲気で面白かったが、その点にはだれも突っ込まず、栄養師の話や仕事の安月給とかアルコールの話で盛り上がった。そして11時50分、ワイワイしているうちに京都駅についた。小田原を出てから、実に、10時間強が経過していた。
 このあと京都から鈍行電車でゆっくりと寝ながら兵庫県を目指して進んだ。途中、慶應生ならば携帯の駅検索で馴染みの『日吉駅』を発見したりして愉しく福知山まで突っ走った。
                    
 休憩を入れずにそのまま兵庫県を北上し、午後4時には『浜坂駅』へ到着した。あとは鳥取を横断して端っこの『米子』まで着けば29日の目的は達成だ。ゴールが見えて余裕が出てきたこともあり、ここらへんで温泉に入って夕飯を食べて休憩しようと決まった。独特の塩分の強いお湯に入って、ドロンドロンになったところで、一杯のビールを食らえば、もう極楽トンボ。疲れもぶっ飛びハイテンション。
 晩飯は年末のせいか店が閉まっていたので駅前のコンビニでお酒とつまみと主食をたらふく買占めて、駅の中にある休憩所で食べることした。一人あたり2000円の大パーティだ。ビールと焼酎とワインを片手に、ワイワイがやがやしているうちに午後18時15分、鳥取行きの電車が来た。
 場所を休憩室から『電車内』に変えて、さらに宴会の続きをやってヒートアップ。車内には乗客が全くいなかったので遠慮はいらないのである。「鳥取の学生は電車の中で飲めば場所代が浮くなぁ」とか意味のわからないことを言いつつ、電車を一つ乗り換えて飲みに飲んですべての酒が無くなってしまった。同時に意識もなくなってしまっていた。
                    
 ふと気がつけば、もうそこは『米子駅』だった。時刻は21時過ぎくらい。駅員さんが「車庫に入りますから早く出てください」と僕たちを引きずりだそうとしていた。約一名が完全に潰れていたのと、ネットカフェやファミレスが遠かったため、もうその駅で寝てしまおうということになった。荷物を枕にして足を伸ばして目を閉じ始めた。
 「…もしもし、…もしもし、ここ閉めるので出て行ってください!!」。床に横になってウトウトし始めた午前1時過ぎ。またしても駅員に叩き起こされた。しかもこの時間に外に出ていけというとんでもない知らせとともに……。僕たちは行く当てもなく、とりあえず外に出た。雪は止んでいたが、道路は一面、真っ白く覆われ、固まって滑りやすくなっている。手をポケットに入れながらこすりつける。かなり寒い。早くファミレスを見つけなければと思ったが、タクシーで行くのはお金がかかるし癪に障る。我々はひと通り歩いて探してみることにした。
 駅から真っ直ぐに歩いてみると、ここは本当に何もないことがわかった。15分ほど行くと大学病院があったのでそこに泊めてもらおうと寄ってみたが、ピリピリと緊張した感じで、とてもそんな雰囲気ではなかった。断念してトイレだけ借りてまた来た道を戻ることにした。 しかし、いきなりF彦が道路の真ん中に立って、「ヒッチハイクすれば大丈夫だぁ!!」と、手を広げだした。こんな夜中に、しかも怪しい人間が三人もいたら誰が乗せようと思うだろうか。「今回はさすがのお前でも無理だよ」と冷ややかな目で見ていた僕とN子だったが、なんと開始五分、一台の車が止まった。「そんな馬鹿な!」と詰め寄ったが、運転手の女性は笑顔で「いいですよ、ガストまで乗ってください」と言う。彼女は先の大学病院に勤務していて、ちょうど帰るところだった。なお彼女は昔、慶應のアメフトのマネージャーをしていた(!)そうで、僕らは縁や繋がりというものの不思議を実感させられた。ガストに到着したあとお礼を言って別れたが、僕は『人間の優しさ』に触れたことに感慨にふけながらキムチ雑炊を食らい、倒れるようにして寝た。―このときすでに午前3時だった。

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よいお年を

 さて突然ですが、今日から島根県の隠岐海士町に行ってきます。
 現在、かの地では、海士町の住人と、進取の精神を持った人達(あるいは新しいもの好き)が集り、『まちおこし』なるものを興しているそうです。
その名も、『AMAワゴンツアー』。
→http://plaza.rakuten.co.jp/ecocollege/diary/200609120000/
『海士町』について
→http://www.wagamachigenki.jp/saisei/02_s01.htm
 先月、この島のイベントに参加した友達が、「やばい!あつい!まちがいない!」と言っていました。中には島に移住している人も出ているとか(笑)。この年末年始もイベントがあるということで、彼と一緒に行ってきます。地方自治、分権などかなりホットな分野でもありますし、NGO関係でも興味深いところであります。個人的には、何よりまず『島』に行ってみたいという気持ちが大きい。もちろん取材も兼ねていますので、時間があれば、その様子をレポートしたいと思います。
 やっぱり『畳の上で本を読んでいる』だけでは、ダメですよ(笑)。「今、この瞬間なにが起きているのか」をマクロミクロの次元で全方位的に掴み、自分で実際に見て確認して伝える。こういう基本的なワークは必要だなと思います。これからも理論と実践、本と現場。バランス良く両立させていければ、いいなと(新年を前にして改めて、自戒する自分であります)。
 青春18切符やヒッチハイクを駆使して行ってきます。二つとも初体験なので楽しみです。たぶん4日か5日には帰ってくる予定です。では、皆さん、年末年始を楽しくお過ごしください。良いお年を。
 おぐっし

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『山の手線一周ピクニック』

のピクニック」という小説がある。
80キロの道のりを、皆で一緒に、ただひたすら歩くというイベント。
キャッチコピーは、『歩くだけ、なのに、楽しい』
歩くだけ、なのに、楽しい。
歩くだけなのに――。
×××××××××××××××××××××××××××××××××××××
命名 「山の手線沿線一周ピクニック」
12月1日の午後21時、僕らは3人は、田町駅を出発した。

×××××××××××××××××××××××××××××××××××××
離れ行く東京タワーにカメラを向けるが、上手く撮れなかった。
もうここは、夜の街。ネオンが光り輝いているのだ。
「つぎは~品川~品川~~♪」
ハイテンションでレッツスタート♪ シバウラアイランドを横目に、行進のごとく、どんどん進む。
…気がつくと、マンションに囲まれ、行き止まり。「早すぎだろ!」と思いながら頭をひねる3人。
おそらく調子に乗って裏道に入ったのが間違いだったのだ。
右往左往していると細道に出て、公園に入った。
線路の向こうに品川プリンスが見える。ここからでは品川駅は行けそうになかった。
陸橋かトンネルであちら側に出なければならない。
すると、下に小さいトンネルを発見。 よっしゃー声を出し、ダッシュで近づくとビックリ仰天。
「ひっ、低い!!」

170センチあれば、通れないトンネルだった。車が頭ぎりぎりの低さで走りぬける。
「ここに閉じ込められたら発狂するぞ」と、Gは膝を曲げながら言った。
「どおおおぉぉぉぉぉぉん!!!」
突然、けたたましい轟音と振動が我ら三人を襲った。
頭を天井にこすり付けて歩いていた僕は、一瞬、何が起こったかわからなかった。
なんだと思ったら、すぐ上を電車が通っていたのだ……。
予想以上に時間を費やしながらも、9時50分に『品川駅』に到着した。

「よっしゃー、これで28分の1が終わったぜ、ははは」
山手線を1駅歩くには、長く見積もって30分掛かったとしよう。つまり28駅で合計14時間だ。
「これは遅すぎる!!」と、3人は冷静に考え、次の目的地へ急いだ。
品川=大崎間はかなりの強敵だった。
品川女子高を通り、真っ暗な工業地帯を進むと、高級マンションが立ち並ぶ。
「行けるぞ」と思って突っ込むと、行き止まりだ。そして、また戻る。
そんなこんなで、三十分以上掛かって『大崎駅』に到着。

大崎は、都心のベッドタウン。ダイナシティーというだけあって、マンションが続々と建設されている。
しかも、マンションから駅まで直線でいけるように高架までつけて。
GとFは、疲れを打破するために○○しりとりをし始めた。
早くも疲れが見え隠れする。
クネクネした道を歩いていると、五反田的な卑猥な光が覗けてくる。
駅のロータリーも前に見えた。横には、先週、三田祭の打ち上げに行った『DOMADOMA』。
『五反田駅』、11時、到着――。
ここいらで景気付けの一杯をやることになった。 チューハイとサラダポテトを購入し、乾杯。
「美味い!! でも、寒い!!」
ズボンはジャージ2枚、上着は5枚、靴下は二枚履き。服装は完全装備だったのに。
しかし、酒の力を侮っていはいけない。ロシア人は、ウォッカで寒さに耐えているのだ。
だんだん体感温度がぼやけ始め、疲れもぶっ飛び始めた。
ここからは、1本道、ひたすら突き進もう。

『目黒駅』をぱぱっと通過し、一気に『ガーデン恵比寿』に到着。
「ガーン!!!」 Oが言った。
華やかなイルミネーションを期待していたが、真っ暗だったのだ……。
そして午前0時、渋谷のハチ公前にやってきた。
田町を出発すること、『渋谷駅』まで、三時間が経過。
ここで、Iが合流。ゲンナリした表情の3人と対照的に笑顔。一蘭でラーメンを食べて休憩。
だが古参の3人は、お腹を押さえながら「吐きそう」を連発……。
タワーレコードを通り、公園を抜けてあっという間に『原宿駅』へ。
竹下通りの横を過ぎて小道へ入った。

おっ、可愛らしい看板を発見した。とりあえず激写。
(…何の宣伝をしているんだこの写真は)。
浪人生の聖地=『代々木駅』を通過し、休むことなく新宿へ向かう。
午前1時45分、僕たちは、眠らない街、『新宿駅』にやってきた。
西口を大きく迂回し、高速バス停留所のハルク前を通過。
ここらで酒でも飲もうかと思ったが、池袋まで頑張ることにした。
調子良く進んでいった。前に駅が見えた。
…だがコリアンタウン『新大久保駅』だと思ったら、総武線の大久保駅だった。「ちくしょー」と一同。
そんなハプニングをやり過ごし、早稲田の聖地=『高田馬場駅』に到着。
 
『さかえ通り』を通過し、富士○○大学の横を通り、目指すは目白だ。
しかし、ここでもまた迷った。山手線だと思っていたら、西武池袋線だったのだ。
「くっそーまたか!!」 三人は頭をもたげながら、来た道を戻っていった。
 すると、「あれ、この道どこかで見たことがある――」
僕はその既視感を手繰り寄せながら、何かを思い出し始めた。
「去年の夏、『椿山荘』でのパーティーの帰り道。皆で目白から馬場まで歩いたじゃないか!!」。
 そうだ、ここの曲がり角で、新聞会の合宿に行くか行かないかについて議論していた。このガードレールで、あいつがバイトの女の子の話をしていた――。
「うわぁ懐かしい!!」、去年の映像がどんどん鮮明に蘇ってくる。「このあと馬場のBLDYに行ってパフェを食べたんだよなぁ」などと4人で話していると『目白駅』が近づいてきた。
僕は思った。「思い出とそれを共有できる友達がいれば、人生は割と楽しいんじゃないか」と。
そして、この『夜のピクニック』の楽しさがボンヤリと分かってきた―。
時刻は午前3時08分。田町を出発すること、実に6時間。ついに我々は池袋にたどり着いた。
『池袋駅』の看板を撮っていたら、ホームレスに「何撮ってんだー」と絡まれたので、さっそうと退散。
ひとまず、マクドナルドで休憩することにした。注文して地下に下りると、席はほとんど埋まっていた。カードゲームに耽る大学生4人組(一人女の子)。終電を逃した飲み会後の大学生4人組。ホストっぽい人たち2人。あとホームレスっぽい人たち数人。などなど。
マックを出て再び歩き始めると、午前3時にも関わらず、ものすごい人だかりを発見。
「え、何これ??」と一同。

 行列の正体は、翌日発売の任天堂WIIを買うために集ったゲーマー達だった。「へぇー、ゲームってまだそんな人気あったのか。そんなパワーあるのならもっと面白いことに力を注げばいいのに。みんな暇人だなぁ!!」と辛口のコメントを吐くOであったが、よく考えたら山手線を歩いている俺たちの方がよっぽど暇人であった……。
大きいステーションは、線路が多い。どれが山手線かわからなくなる。
この池袋もまさにそうだった。途中コンビニで場所を確認、次の大塚、巣鴨を目指し、再出発!!!
「夜明けまでには上野に着くぞ」
そう決意して怒涛のごとく進む。ここからは早かった。
 
『大塚駅』から徒歩3分のところにある『てるちっち2』(携帯が安い!!)
『巣鴨駅』についた。

(このあとすぐ、始発の電車が走り始めた)
1駅あたり15分のハイペースでどんどん進む。 巣鴨=『駒込駅』間は一瞬で撃破!!
駒込=『田端駅』間の心臓破りの坂をクリアし、次のターゲットは、西日暮里だった。
しかし、我々の前に大きな障害が立ちふさがった。

  先の見えない坂――『行ってみたら行き止まり』というシチュエーションを何度も繰り返してきた我々にとって、足がガクガクに震え、膝が軋む我々にとっては、ある意味、地獄への入り口に思えた。
「行くべきか行かざるべきか、それが問題だ――」
真っ暗闇の中、坂を駆け上がり、右へと進むと、前のほうに駅の明かりを発見した。
「あっ、『西日暮里駅だ!!」 我々は助かったのだった。
 日暮里駅への途中の坂で、4人の住民の人に会った。彼らは、地域のゴミ拾いをしているようだった。そのうちの1人に目を向けると、小さい女の子だった。時計の針は、午前5時20分。こんな早くからゴミ拾いをしているのか。池袋では、何百人の大人がゲームのために並んでいたというのに……我々は意味もなく歩いているというのに……。
少し罪悪感を感じながら進むと、その女の子が通っているであろう、小学校を発見した。
「なるほど、いい子が育つわけだ」。校門を目の前にして僕は思った。

 あいさつし隊――「オレ、今日あいさつし隊なんだぜ。いいだろぉー」とか言っている子供を想像すると、嬉しくなるのは、僕だけだろうか。…挨拶は大事だね。これからも元気に挨拶してください――。
そうこうしているうちに、『日暮里駅』に無事到着。
ホテルサニー、サニーホールという建物郡を抜ければ、もうあとは『鶯谷駅』だった。

細い路地や裏道に入り込むと、そこは渋谷顔負けの(?)ホテル街。

(…粗品あるそうです)
ホテル街を抜けると、高架橋を駆け上った。下は上野駅に通じる線路―。
そこを歩いていたとき、ついに日が明けてきた。

時刻はちょうど午前6時20分、我ら4人は、『上野駅』に到着した。
「やったー」と喜ぶ四人。
だが、我々の体はもう限界に近づいていた。
朝食・休憩に入った『松屋』では、横を見ると、三人とも豚丼を食べながら寝るという始末―。
そう、ここからが本当の意味で、精神力の勝負となった。
『御徒町駅』は、500mも離れていないが、時間がかかる。
フラフラになりながらも『秋葉駅』、『神田駅』を通過。

(神田駅前に立っている、銅像)
膝が曲げらず、ズキズキ痛む。それでも、肩を組みながら前に進む――。
午前8時05分、我らが『東京駅』に到着した。

4人は、一言もを発しなくなっていた。下を向いて、半分意識を失いながら歩き続けていた。
通勤途中のサラリーマンや学生が歩いている中、明らかに異質な4人の集団。
外はもう明るい。雲ひとつない快晴で、太陽が照りつける。
東京から、『有楽町駅』、新橋は、線路に沿って1本道。だが予想に反して時間が掛かった。
ここは京浜東北線も通っているように、1駅1駅の間隔が長いのだ。
『新橋駅』のSL広場で、写真を撮り、また1本道を突き進む。
そして午前9時15分、『浜松町駅』に到着。
この時点で昨日、田町を出発してから、12時間が経過していた。
もうゴールは目の前――第一京浜に沿ってひたすら歩く歩く歩く。
線路が大きく曲がるに沿って、道を右折。
そうすれば、もうあとは真っ直ぐ直線。
スターバックスが見えてきた。そして、みずほ銀行がもう目の前だ。
「やったー」
ついに、『田町駅』に帰ってきた。
時刻は午前9時40分、昨夜ここを出発してから、総時間は12時間40分。
僕たちは、山手線を制覇したのだ!!

(参考として、12月号http://www.jukushin.com/article.cgi?k-20061220)
  (☆もしチャレンジしたいという人がいれば、夜の18時には出発することをお勧めします。そうすれば、途中の渋谷や新宿で夕食を食べたりお酒を飲んだり、ゆっくりできます。しかも暗いうちに到着できます。ぜひ試してみてみるべし☆)

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プロのジャーナリストとは

 もしあなたがプロのジャーナリストを目指しているならば、新聞研究会や学生新聞などさっさと辞めた方がいい。それよりも、畳の上で本を読んでいた方がずっと効率的だ。」 
 六本木の真ん中にある喫茶店。向き合って座る二人の学生と一人の大人。我々は塾生新聞を差し出し、こう切り出した。「1月は就職特別号です。マスコミ志望の人のために『プロのジャーナリスト』について伺いたいのですが…」。彼はコーヒーを一杯、口に運んだあと、我々にこう問い掛けてきた。「君たちは、将来、ジャーナリストになりたいの?」と。それはテレビで見る彼と変わらない、穏やかな口調だった。「一応、選択肢として考えています」そう返答すると、期せずして、冒頭の言葉が飛び出してきた――。
 (NHKワシントン市局長を経て、現在、外交ジャーナリスト・作家となったT嶋龍一氏。9・11テロの報道を皮切りに一躍有名になった彼だが、最近はインテリジェンスの分野でも著作を連発。北朝鮮の偽ドル札疑惑の裏側を小説として書き上げた『ウルトラダラー』、佐藤勝氏との『インテリジェンス』についての新書―。輝かしい実績を携えた彼へのインタビューは、終始押され気味の展開となった)
 「日本にはプロのジャーナリストが少ない」。そうT島氏は語るが、これはどういうことなのか。
 「考えてみてください。100mを12秒で走る人がオリンピックに出場できますか。90km程度の球しか投げられない投手が、プロとして活躍できますか。当然、無理でしょう。記者もそれと同じ。『記事を正確に機関銃のような速さで書く技術』がなければ、前提としてプロの適正がない。私の経験則で言えば、日本の記者は、それが出来ていない人が多い」。
 ただし、『正確に素早く記述するという作業』は、プロフェッショナルの前提としての素養であり、それが『プロ』たらしめるわけではない。ジャーナリストの仕事の本質を、T嶋氏は『歴史の証人』だと説明する。
 「例えば、エドガー・スノウというジャーナリストが書いた『中国の赤い星』、これは素晴らしい。スノウ記者は、毛沢東率いる共産党が長征を終えた1936年、紅軍の内部に入って行き、それまで知られていなかった彼らの様子を世界に報告した。そうして彼は、今でも貴重な資料の、『歴史の証人』として知られている。そういう偉業を達成するには、先ほど述べたように、素早く正確に記述する能力はもちろんのこと、歴史に対する洞察力が必要でしょう。ここが歴史のターニングポイントだと覚知するには、現在から遡り、過去の背景や歴史を知っていないとできません。そういう意味で、きちんと勉強をして歴史観を養っておく必要がある、ということです」。
 加えて彼は、『世界を揺るがした十日間』、『ローマ帝国衰亡史』、『アジア発特別電報』など続けざまに紹介した。
 では最後に、マスコミへ就職活動をする塾生に向けて次の言葉を頂いた。
 「今まで言ってきたように、『プロ』になることと、『会社』に入ることは全く違う。だから入社試験だけならば、割りと簡単にパスできる。アドバイスとしては、作文の完成版を事前に作っておくことを薦める。信頼できる人に見てもらい、添削を受け、それを暗記する。そして、出題のテーマに合わせて前後3行ほどを変える。実際に、僕が頼まれて変わりに完成原稿を書いたら、その後輩がNHKに受かってしまった。試験なんてそんなものだよ(笑)」。
× × × × × × × × ×
 穏やかな口調は、いつもと同じだが、その内容はかなりトリッキーだった。彼は、日本にはプロのジャーナリストはいない、その育成システム自体が崩れ始めていると指摘していたが、私へのアドバイスとしては、「アメリカとは違って、日本は『社』としての新人の研修や育成をしっかりやってくれるのだから、今、職業訓練のようなものをする必要は全くない」と言った。かなり矛盾していると思うのだが、これはどのように考えればよいのだろうか。
 例えば、私が、「組織とは当然、組織の論理や制約がある。ジャーナリズム組織では、それに対する馴致と順応、そして同時に離脱が大事だと思うが、T島さんはどのようにそれを実践していきましたか」という趣旨の質問をしたところ、彼は次のように答えた。
 「開高健は、『不良には、良い不良と悪い不良がいる』と言った。悪い不良は自分の思い通りに行かないことを世の中のせいにするが、良い不良は他に原因を押し付けず、自分の問題としてそれを解決する。メディアもまったく同じ。組織の束縛や制度のせいで上手くできないというのは、プロフェッショナル云々の次元ではない。組織の制約など無い方がおかしい。本当に優秀な人は、そういうのは当然としてこなした上で、自分で時間を作り、問題の解決を行うものだ。つまらないメディア批判をするくらいなら、まずは自分がどうするかを考えるべきだ」。
 質問の趣旨が上手く伝わらなかったのだが、ある意味でこれは大事なことだろう。人はしばしば、悪い不良少年になりがちだ。特に、ジャーナリズム研究をする人は、構造的に問題を把握する傾向にある。だから、もし自分が調査し批判しているその当の立場になってしまったら、自分の非を、制度の側に求めてしまう可能性が高い。「自分は悪くはない。クラブが悪いのだ」と。
 その意味で、彼が徹底した自己責任を貫徹しているのは、なるほどすごい。自分に邪魔なものや不愉快なものがあるのは、当たり前。それを乗り越えた人がプロフェッショナルである。そして、おそらく、このようなストイシズムは、どの分野のプロフェッショナルであれ、普遍性を持っているだろう。
 この結論を持って、彼がなぜ組織の構造的な問題を論じたがらないのか、その一端が示されただろう。プロフェッショナルの概念とは、組織にではなく、あくまで個人に帰属するものだったのだ。
 

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インテリジェンス 武器なき戦争


本書は、外交ジャーナリスト手嶋龍一と外交分析のプロ、佐藤優の対談本である。
『情報戦争を勝ち抜くためにも、日本版NSC、CIAが必要だ―』 
彼らは留保を付けながらも、そう主張する。
ただ、勘違いしてはいけない。
今の日本は、インテリジェンス能力において、決して劣ってはいない。
軍事大国は、インテリジェンス小国になりがちだ』。外務省のラスプーチンと呼ばれた佐藤は、ソ連消滅後、アメリカの情報力が弱体化したことを指してそう述べている。
そもそも、『インテリジェンスや情報力とは、自分の弱いところをできるだけ隠して、強いところを実力以上に見せる技法』である。その意味で、軍事力が圧倒的に強い国には情報力が育ちにくい。情報力に頼らずとも、最終的には軍事力で解決できるからだ。それに対して、イスラエルのような小国は、情報の判断を誤れば、それこそ国の滅亡に関わってしまうため、インテリジェンス強国なのだ、と。
だから、『非軍事大国にして経済大国である日本は、ウルトラインテリジェンス大国』でありえる。そして、TOKYOは、情報の集まる豊穣の地であり、約束された場所であると。
ただ、そういう潜在力はあっても、今の日本はその力を発揮できていない。むしろ、これからの情報戦争において、現状のままでは危うい立場に追い込まれる可能性を指摘する。
端的に言って、良い人材がいないのだ。
冒頭では、日本版NSCの必要を言っている。だが、二人は、今検討されているアベ版のインテリジェンス組織に懐疑的だ。器だけ作っても、それを運用できるプレイヤーがいないなら、余計危ないと。
だから、彼らはインテリジェンスに長けた人材を育成する制度、機構を作れと言う。
まずもって、今の官僚は気概と学術的素養が足りない。
直接的に言えば、『大学で勉強していない』のが前提として問題だ。
さらに、官僚の制度も問題だという。
官僚は、2年間を研修期間として課せられるが、その後はひたすら働くことを強いられる。
極端に言ってしまえば、つまり、大学時代の4年間プラス研修の2年間、合計6年間の知識蓄積によって、40年間を働かなければならない。それでは、外交を行う上で、知識の次元で負けてしまう。
これでは、ダメだ。
彼らが提案するのは、『ミッドタームキャリア』として、定期的に『学習の機会』を作ることである。
加えて、手嶋龍一は、ジャーナリズム組織も同様に『焼き畑農業』だと指摘する。
そして、このミッドタームキャリアを適用せよと主張する。
(以下引用 http://www.ryuichiteshima.com/review/review_sub14.htm)
いまの日本のジャーナリストの仕事を、僕は自嘲をこめて「焼き畑農業」と呼んでいるのです。いわゆる中間研修、ミッドタームキャリアというものが、この世界には基本的にないんです。日本の学生は総じて大学できちっと勉強していない。僕らの職場の中でも、学生持代の勉強の話をする人間なんぞお目にかかったことがありませんからね。そういう人たちが新聞社や放送局の記者になると、毎日毎日、夜討ち朝駆けでやっているからミッドタームキャリアを積む時間もない。日本のジャーナリストはリタイアが早くて、すぐデスクになって現場を離れてしまいますが、結局、そのくらいで燃え尽きちゃうんです。焼き畑農業と同じで、それまでの蓄積を使い果したらおしまいです。「生涯一捕手」のような生き方は、この世界ではまずありえない。僕は幸いなことに、アメリカでミッドタームキャリアを受けることができました。そうすると、そこで新たな蓄積ができるわけですね。いま六者協議で韓国側の代表を務めている人物とは、このとき2年間、寝食をともにした仲です。あるいはスペインのカルロス国王の親友でもある大新聞社のオーナーとか現在のコロンビアの国防大臣もこのときの仲間です。ミッドタームキャリアの中で、新たな人脈を得たり思索に耽ったりすることは、その後の仕事に非常にプラスになります。
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僕は、彼ら二人の主張には、基本的に賛成である。もちろん、CIAというと、ロシアKGBや公安警察などが頭に浮かぶし、暗殺とか監視といったネガティブ要素が付きまとう。そこには留保は必要だ。だが、上で述べたように、もし日本が非軍事でいくのなら、なおさら情報力は不可欠になる。日米同盟の空洞化が叫ばれる中で、必ずしも理想主義だけを語るわけにはいかない。それに、今のままで中身のない器だけの、(アベ版)インテリジェンス組織など、もっと危険である。ちゃんとした人材を、制度的にバックアップするべきだろう。
 ただ、僕がもっとも危惧するのは、その前提の、『官僚の気概』についてである。
宮台シンジは、『パブリックコミュニケーションが、学生にとって魅力的なものではなくなっている』と指摘していた。学生がいま、一番関心があり、カッコイイと思っているのは、極論すれば、『お金儲け』である。パブリックなことを話すことに興味がないし、公的なものにコミットすることは、もはや関心を引かない。極端な右翼や左翼が、『俺たちの運動は高貴なのだ。なぜなら、俺たちはお金儲けのために行動していない。『国』のために自分を奉仕しているのだから』と言うのは、それ自体まったく馬鹿げている、だがその中にも一理ないとも言い切れないだろう。
愛国心は大事だと語りながら、外資系ファンドやコンサルに入っていく、学生たち―。
かっこいい(よさそう)というのは、分かる。儲かるというのも、分かる。
それがいまのファッションだということも分かる。
けれど、何か、釈然としないのだ。
『公的なるもの』は、もはや国家だけではない――。そう主張する人もいるだろう。
だが、そう言う人は、本当に国民国家の『必要悪』に自覚的なのだろうか。
『パブリックなるもの』に対する意識の変化。
安全保障や愛国心、国の根幹に関わる議論は、これを通さずには語れない。

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自分を鼓舞するための宣言

来年、留学に行くことに決めました。
慶應では、交換留学ならば、2年生の秋に試験を受けて英語圏に行くのが普通です。
でも僕は、点数の都合で受けなかったため、次の3月にあるオーストラリア選考に応募します。
受かれば、三年の2月~3月から一年間、オーストラリア♪
とりあえず、今からCNNイングリッシュを買って勉強したいと思います。
目指せ、230点!!

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然るべき時間と集団的記憶

気がついたら、もう12月18日。
クリスマスシーズンの真っ最中ではないか―。
嫌な時期だ。
去年は、たくさんバイトや用事を入れることで乗り切った気がするが、
果たして今年はどうなるのでせう――。
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まず、一言言っていこう。
大晦日に派遣の仕事を入れるのは絶対にやめたほうがいい。
去年、僕は幕張メッセのカウントダウンライブの整理の仕事をした。
よく知らない人とペアを組み、30分ごとに会場を見て回り、ゴミを見つけたら拾い、混雑しているブースがあれば、ヘルプに入る―。言わば、『存在の有無に関係なく世界は回る』という種類の、不必要なバイト君であったわけだ。
だが逆にいえば、30分回ったら、奥の休憩室で30分休めた。これは良かった。その時間は、何をしていてもいい。コーヒーを飲んでもいいし、漫画や本を読んでも、可愛いバイトの女の子に話し掛けてもいい――。ほとんどの人は壁によっかかって寝ていたし、僕もぐーすか寝ていた。。
     (この睡眠中に、いつの間にか年が明けていたのはかなりショックだったが…)。
3時~4時、レミオロメンの歌ですべてのライブが終了した。
そして、これからが勝負だった。
会場の撤去、整理、そして肉体労働。
さすがに五時間あれば終わるだろうと思っていたら、全くおわらなかった。
すべてが終了したのは、午後12時過ぎ。結局、大晦日の昼12時から丸一日掛かった。
過労はもちろんあったが、
もっともダメージを受けたのは僕の心、実存、生き方だった。
このときばかりは、お金よりも大切なものがあると思った。三万円が何だと、家への帰り道、てくてく歩きながら思った。やっぱり然るべき時には然るべき場所で然るべき人たちと一緒に過ごすのがもっとも健康で文化的な生活だなと思った。三万円によって損なわれたのは、然るべき時間を共有できたはずの貴重な集団記憶であり、思い出であり、一年を振り返る内省と感慨であった。
というわけで、陰険なクリスマスというイベントも、考えようによっては然るべき時間であるので、無駄に一人で過ごすことはやめませうと、僕は提案したい。誰か知り合い(家族や友人)と一緒にいれば、それは回顧したときに必ずや心愉しい話題になり、集団の記憶装置になるのだから。
結論、幕張メッセに派遣に行くのはやめませう。

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作文―格差社会 パート2

 「もしも心がすべてなら、いとしいお金はなにになる」。
 
 この詩は、フランク・シナトラの歌詞であり、歌人の寺山修司が好んで使っていたことでよく知られている。この詩が流行したのは高度成長期、貧しさを内包しながらも希望という物語に抱かれていた時代。人々が一丸となって働き、一体となって生活の向上を体験した。そこでは、誰もが「金持ち」を目指し希求していたものの、幸せの尺度は、お金だけではなく、もっと広くさまざまな物差しで計られるものだと、そのように共感されていた。
 
 シナトラの「もしも心がすべてならば」という言葉は、精神的充実を大事にし過ぎていたことに対する裏返し、反発であり、「お金よりも大事なことはあるさ」という気軽さがその当時を支配していたことを含意している。と同時に、この詩が面白いのは、「お金」という一見すると寒々しい言葉に、「いとしさ」というイメージを貼り付け、道具としての貨幣に、その使い手である人間のドラマを付与したところにあるだろう。だが果たして、現代に、「お金をいとしく」思う感受性が残っているのだろうか。
 
 昨今、「金さえあれば何でもできる」という発言がマスコミに取り上げられ、もてはやされるようになった。バブル期の「○金○ビ」、最近の「勝ち組負け組」に象徴されるように、社会を収入の差によって二分し、それらを上位と下位として分断する価値観が日本を覆い始めている。さらには、収入の差によってアクセスできるステージが決定される、身も蓋もない『格差社会』が到来しているというのだ。
 経済成長の鈍化、グローバル競争の真っ只中では、政策として、大きい政府から小さい政府への舵取りをせざるをえない。5%負担で、20%保証の時代は終わった。これからはいかに「下流層」の痛みを和らげ、機会を保持できるかが焦点である。格差が広がり、子供においてさらに教育格差が広がるといわれている。中でも、私がもっとも危惧することは、山田昌弘の言うように生きる上での希望が失われてしまうことだ。「頑張るんだ」という気持ちすら無かったならば、もう対策の打ちようがない。だが、気持ちさえあれば、今はインターネットによって無料で講義を閲覧できる。機会は限りなく広がっている―。
 
 「大いなる言葉には現実を変革する力がある」と言ったのは寺山修司だった。青森の貧しい家の生まれながら、鋭く刺さる言葉と感受性を武器に、人生を縦横無尽に駆け抜けた。彼の生き方は、格差社会を生きる我々の参考になるだろう。なぜなら、彼は「お金があれば何でもできる」なんてこれっぽっちも思っていなかった。寺山は、大いなる言葉を駆使し、「お金がなくても何でもできる」生き方をしていたのだから。

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作文―格差社会 パート1

 『大貧民』というトランプゲームがある。手持ちのカードを誰が早く手放せるかを争い、勝った順番によって「大貴族」「貴族」「平民」「貧民」「大貧民」などに階級分けされる。二回目からは、貧民は貴族に対して年貢を、つまり、強いカードを与えなければならない。 結果として、貴族はより勝ち続け、貧民は負け続ける、そういう仁義なきゲームだ。
 最近、そんなシビアな世界が日本社会でも表出しつつある。教育の機会均等の原則が崩れ、親の経済力や文化力によって、子供のスタートライン、そして将来が規定されてしまうというのだ。
 以前、日本三大ドヤ街のひとつである横浜の『寿』という町で、ホームレスや日雇い労働者への炊き出しを手伝った。寿では、バブル崩壊後、日雇い労働者たちが数多く押し寄せたが、仕事は減る一方だった。安宿だけでは足りず、支援団体が簡易施設を作った。そこには、今でも人が溢れ、三分の二が生活保護を受けている。驚いたのは、その中に子供を抱える家族の人たちも暮らしているということだった。その子供は周りの人の支援によって幸運にも今、大学に通っているというが、そういう人は稀だという……。
 経済の後退や少子化の進行、社会構造の変化に伴い、「公共」という誰でもアクセスできる機会が崩れつつある。階級によって分断され固定化される世界の到来。それは、バブル期に流行った「マル金マルビ」という格差を戯画化する言葉が、今では「勝ち組負け組」という身も蓋もない言葉に取って変わられたことからも見て取れるだろう。この寒々しい世界の中で、誰もが方策を求めて探し回っている。それでも、答えは見つかっていない。
 冒頭の『大貧民』では、階級の固定化を防ぐために、多様な救済ルールが敷かれている。特に地方によっては、数字の小さいカードを逆に強くしたりして、誰もが楽しめるように流動的な仕組みが多くあるという。どこか、地方からの悲鳴にも聞こえるが、そういう遊びの知恵を、現実にも応用できないだろうか。 

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硫黄島シリーズの評論

 
 日本軍がミッドウェー海戦、マリアナ海戦で大敗を喫し、米軍の触手が、日本の領土にまで迫り始めていた一九四四年六月八日。栗林忠道(渡辺謙)は、陸軍総司令官として、東京より約一二〇〇㎞南にある硫黄島へ赴任してきた。
 「硫黄島は絶対に死守しなければならない」。
 本土の家族からの手紙を読み返しながら、栗林は強く決意したのだろう。飛行機を降りると、その足で硫黄島を歩いて回った。地理的条件を目で確認しながら、「このままでは島はすぐに陥落してしまう」と直感した。
 米国留学の経験から、アメリカとの戦力の差を痛感していた栗林は、従来の海岸線に主力を置く作戦を改めた。陣地を後方へ移し、地下壕を掘り、島中に無数のトンネルを張り巡らせた。―いわゆる、ゲリラ作戦。それは、この戦いの目的が、「勝つ」ことではなく、「負けない」こと、兵士の命の最後の一滴まで使い、米軍の本土空爆を先延ばしすることだったからだ―。
 ここに第二次世界大戦最大の激戦地の一つといわれている硫黄島の最大の悲劇がある。「家族のために島を守る自分」と「それがために死をためらう自分」の分裂。彼らは、果たして、何を思って戦ったのだろうか。
 主演の渡辺謙は、作品について、「悲惨な戦争の中にでも、ヒーロー(英雄)がいる、という印象を与えたくなかった」と語っていたが、このことは、『硫黄島二作品』に通底するテーマであり、監督・クリントン・イーストウッドの狙いでもあったのかもしれない。
 『硫黄島からの手紙』では、司令官の栗林忠道は、それほど突出した人物として描かれていなかった。なぜなら、この映画には「人間」であり続けた兵士が他にも丁寧に描かれていたからだ。一介のパン屋であり、国家の思想と同一化できず、ただただ妻とそのお腹の子供を心配する西郷(二宮和也)。上官に「犬を殺せ」と命じられたが、できなかった元憲兵の清水(加瀬亮)。米軍捕虜を殺そうとした日本兵に、「お前はアメリカ人に会ったことがあるのか」と迫った、五輪・金メダリストのバロン西(伊原剛)―。戦争という、人間が人間でなくなる極限状態において、彼らは栗林と同様、自己を保ち続けたのだ。
 
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 『父親たちの星条旗』では、一枚の写真が米国を励まし活気付けたことで、一躍、英雄に祭り上げられた三人の葛藤と悲劇を描いている。写真に映っている六人のうち、三人が硫黄島で死に、三人が生き残った。「我々は旗を立てただけで英雄ではない。あの地で散っていった仲間こそが英雄なのだ」と言う彼らの言葉は、本音なのだろう。
 生き残ってしまったがゆえに、英雄にはなれない(死者にしか英雄はいない)という逆説が、彼らを苦しめる。国家のため、国債の調達のため、イベントに借り出され、各地を凱旋し、『英雄』として喝采を浴びる日々。作られた笑顔の中に苦痛がにじんでくる。彼らの葛藤はおそらく知っていた。彼らは見せかけであり、すぐ忘れ去られる存在であると。国とはそういうものであり、戦争とはそういうものだ、と。
 「戦争とは英雄を作り出す装置」。
 このことを映画で表現する際、イーストウッドは、自分の表現自体が抱える「戦争の美化」について自覚的だった。だからこそ、味方と敵、善と悪という二分法を避けるため、彼は二つの映画作品を作ったのであろう。その試みがどの程度、成功したのかわからないが、二つの映画が戦争の一面を鋭く突いていることは確かだ。

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教育問題に関する殴り書き

 防衛庁が防衛省になり、教育基本法が改正されそうだ。
 防衛省に関しては、まあよくわからない。
 けれど、教育基本法に関しては何度も言ってきたように、僕は反対の立場である。
http://www.videonews.com/press-club/0607/000898.php
 ↑立花さんがアベ政権について警鐘を鳴らしている。アベ首相自身は右翼ではないが、彼の取り巻きが急進的で、ふとした拍子で転がる危険性があるという。僕もこの危惧を共有する一人である。
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 教育基本法に関しては、基本法という性質上、これは法律ではなく、憲法と同じだと言ってよいだろう。あくまで理念法であり、具体的に批判されるべき項目はひとつも言っていい。「不当な支配」という文言においても、国が教育に介入するのを防ぐという意味では絶対に必要なものだと僕は考える。そもそも国を縛り付ける憲法を国の思い通りに行かないからと、これを書き換えるのはまったく筋違いだ。また改正したあとの文言解釈が曖昧であり、愛国心についてはどこまで介入していくのかわからない。あまりに安易すぎる。(左翼が学校に跋扈しているという批判はあるにしても、それを法で云々するというのはちょっと賛同できない)
 さて法改正に沿う形でイジメや自殺問題が噴出している。だから改正して立て直すべきだという意見も出ている。しかしこれらの諸問題についてはもし仮に基本法を改正したとしても解決しないばかりか、むしろ自体を悪化させる種類の問題だと思われる。なぜならイジメは規範意識の低下の問題というよりも、学校の環境的な構造に問題があるからだ。
 「自殺するのは、最後の逆転満塁ホームランを打とうとしているからなんです」
 社会学者、大澤マサチはそんなことを言っていた。
 いじめられている子供は、逃げるに逃げられない絶望状態において、最後の最後でいじめている子に一泡吹かせたい、あるいは自分に注目を持ってもらいたいと思って自殺をするのだと。
 マスメディアは、しかし、自殺した子を神聖化する報道を行い、さらにホームランを量産する悪循環を生み出している。自殺をなくすには、報道を制限し、自殺を神聖化しない方がよいにも関わらず…。皮肉ではあるが、イシハラ都知事の「馬鹿だな」の一言のほうが自殺の防止にはよっぽど効果があるだろう…。
 さて、本当にイジメ自殺を減らしたいなら、上でも述べたように構造的な制度的な問題を改善するべきだ。これはミヤダイ氏やナイトウ氏が一貫して主張しているように、学校という中間全体主義的共同性を弱体化させる必要がある、ということだ。
 http://www.videonews.com/on-demand/291300/000928.php
 簡単に言えば、今のイジメや自殺は、ひとつのコミュニティーに詰め込まれ、逃げ場のない状況から起因する。毎日、毎日、嫌いなやつと生活を共にしなければならない。ここが一番の問題だ。
 大学にいる人ならば、その素晴らしいユートピア性を実感できるだろう。話が合わないやつ、馬鹿なやつ、ギャル男、そういう人とはまったく接触を持たなくていい。サークルにしても、何にしても、嫌なら逃げ出せばいい。距離を置けばよい。ひとつのコミュニティが消えても、違うところへ行けばよいのである。
 だが、小中(高)学校は、このような環境とはまるで正反対の場所だ。しかも、クラスだけでなく、クラブ活動までもそういう逃げ場のない閉じた環境に置かれている。
 この状況を打破するためには、ミヤダイ氏は、学校を「市民社会」化させ、社会契約の一般ルールを適用しろという。いじめの加害者である生徒を厳罰に処せずに、彼らを未熟という点から保護している状況こそがおかしい。警察は学校には介在させない、と金八先生よろしく叫びたてるが、そういう学校の治外法権化がこれまで問題を先延ばしにし、悲劇を繰り返してきた元凶であるというのだ。
 欧米諸国は、それぞれ差はあるものの、中学の時期くらいから、市民社会ルールを適用させてきいる。フランス・ドイツでは学校はもはや予備校化しており、勉強ができなければ留年もありえる。むしろ勉強させたほうが自殺は減る、自己責任で受験勉強させたほうがイジメは減るという(らしい)。
 学校おける問題児、イジメ加害者に対しての対処として、出席停止処分というのが検討されていたが、結局、適用は見送られたという。「加害者だからと隔離してしまうのは、教育の温情からして認められない」云々の理由であったが、これはまた、加害者優位の先延ばしではないか。
 これは自分の経験上で申し訳ないが、イジメを行う人間というのは、基本的に、自分は間違ったことをしているという意識を持っていない。自分は正義の側であって、空気を乱す相手が悪いのだ。そして、これらをある意味で無意識的に行ってしまっている、というのが僕の個人的な見解だ。
 教育には愛情が必要である、という意見は賛成であるが、それが学校現場でどのような効用をもたらすのかという実利的面では、疑問を持っている。愛情云々の教育は、教師個人の能力に依拠することになる。もし、それが健全に機能しているのならば、これほど騒がれる事態にはなっていないと思う。
 ここは緊急避難的に、加害者を隔離、排除する方向で措置を取るべきだろう。
 学校の市民社会化という側面は、しかしながら長期的な視座から見たら大きな問題を孕んでいる。たとえば、学校という窮屈な中間共同体を弱体化させたとしよう。だが、日本では、イジメは大人の会社社会においても厳然と存在している。自分は経験上わからないのだが、そういう話をよく漏れ聞く。もしそうだとしたら、小中学校の逃げ場のない共同体制というのは、社会に出るための前段階として、ある意味で免疫を付けさせる訓練の場であると、いえなくもない。体育会系の教師よろしく、学校でも耐えられん奴は社会に出ることなどできないと 笑。
 考えていったら何処までいってもラチが開かないので、ここら辺でやめよう。
 いずれにしても、こういう議論がモンカ省や議会で行われているのか、疑問である。行われているかもしれないが、国民には届いていない(再生会議など)。いや、届かせていないだけかもしれない・・・。

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