旅行帰りと訂正

 いまさっきゼミの北京旅行(3泊4日)から帰って来ました。
 (で、出発前に下書きしていた文章を間違えて公開していたことに気が付きました。書き殴りの不完全な文で意味不明だったと思います。もし読んでしまった人は気にしないでください。)
 北京旅行は、ものすごく楽しめました。気の合うメンバー同士の「修学旅行」みたいなものなので、北京が平凡だったとしても、「旅行」そのものが詰まらなくなるわけはないと思っていましたが、実際行ってみると、北京という街が気に入りました。
 混沌と整然が入り混じっている感じといったらいいでしょうか。徹底的なルール主義があったり、あまりにも素朴な適当主義があったりで、統制の国なのか自由の国なのか分かりません(笑)。特に、街のど真ん中に逆バンジージャンプ場が設置されていたのは、謎の極みでした(1回、1500円で街中で空まで飛ぶことができる。因みに、これをやると、大通りに人だかりができてジロジロと見られる。僕たちは三人でやった。飛んでいる瞬間の自分たちの表情をビデオで見れる。面白いのでお勧め)。
 最終日は、一睡もしていないので眠いのです、また次の機会に書きます

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記憶に残る本の紹介の仕方

 ミ課題に行き詰ったので、久々にブログでも更新してみる。
 うちのゼミ課題は、自分の記憶に残っている本を五冊紹介するというものなのだが、これが意外と厄介なことに今、気がついた。ただ単に本を紹介してもつまらない。自分の人生観にどれだけ影響与えたかを織り交ぜて書かないと、「これが僕の記憶に残っている本です」と胸を張って公言しづらいのではないか。そう思ったら、何だか急に書きづらくなってきたのである。 
 「記憶に残っている」=「人生に影響を与えた」という意味を付与するのであれば、その本を読む前と読んだあとで、自分自身がどのように変化したのか変わったのかを上手く書かなければならない。ただ、こういう有用な知見が得られました、東アジアにおけるパワーバランスの新しい視座を得ることができました、と言っても何だかしっくりこない(気がする)。
 それにしても自分がどのように変わったのかを説明するのは、本当に難しい。たとえば、同窓会で、お前は変わっていないとよく言われる。でも自分では変わったつもりだ。そして今でも少しずつ変わっているつもりだ。変わっていないのはお前だよ、お前が中学・高校のときと変わらない世界の見方をしているから、世界が変わっていないように見えるだけだ。そう言い返したとしても、ザンネンながら相手は理解してくれない。そして、僕は変わっていないことになる。
 結局は、経験・行動の次元でしか証明できないんだ。
 本を読んで自分という人間が変わったことを証明するとすれば、知識の増加や世界の見え方の変化云々ではなく、あくまで、あなたの行動はどう変わりましたかという具体的な問いに答えるしかない。じっさい僕は、このような現実に辟易している。経験・行動なんて単なる身体的な表象に過ぎない。上っ面だけのくだらない経験主義だからだ。でもみんな知っている。それ以外に世界を理解する方法はないことを。経験・行動の範疇でしか、人は人を理解できないということを。
 いつも自分の内なる変化を具体的に克明に描きたいと思っている。簡単な抽象語で済ませるのではなく、具体性の集積のうちににじみ出るような感覚に辿りつきたいと切望している。でも、それは高い技能と高い精神性の必要とされる作業だ。こんなんじゃないと感じながら、こんなものだと簡単な一言で片付けてしまう人には無理なことだ。才能と修行が必要であり、才能がない僕にはもっともっと修行が必要なんだ。
 
 …・気がつけば、2時間以上、パソコンの前に座っている。適当に書いているうちに徐々に本気になって考えて込んでしまう。これは果たして自分にとって良いことなのか悪いことなのか。この頭の中の葛藤は、自分にとって意味があることだろうかないことだろうか。よく分からない。あまり良いことではない気がする。でも書き出すといつもこうだ。特に、「伝えるべきこと」がないときはいつもそうだ。うむ、以後、気をつけよう。

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開放性に満ちたキャンパス

 日は東工大のキャンパス@大岡山に行ってきた。ポカポカして心地よい日差しの下、桜のつぼみを観察したり、芝生に寝転んだりして過ごした。大学っていいなぁと思った。今までたくさん見て回った大学の中でも、東工大は、特に心地よい印象を受けた。
 敷地が広くて緑に溢れている――これだけならば、SFCのキャンパスだって当てはまる。でも、東工大の場合は、空間全体がどこか開放性に満ちている。街の真ん中に作られているというのもあるだろう。キャンパスを眺めていると、地元の住民の人達がたくさんこのキャンパスを当たり前のように横断したり、使ったりしている。親子がフリスビーやサッカーをして遊んでいる(子供は、ここを公園か何かと思い込んでいると思う)。
 そういう光景は見ているだけで心が和む。悠久の流れを感じる。人生は短くはかない。けれど、無限だみたいな。よくわからないけど、そういう感じ。大学はいいもんだ。いいもんだなと思う。

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『編集者という病い』

 分の価値観や生き方の軸が固まってくると、他の人がどのように生きるかは大して気にならなくなる。自分の設定した価値観に向かって自ら取り組んでいれば、他の人が何をしていてもどんな面白そうなことをしていても、価値観の軸自体が異なるから自分の『生き方』は、さほど脅かされない。
 将来をどのように生きていこうかについて漠然とながら固まってきた僕は、だから最近は他人から大きな影響――それは『生き方の修正』という意味で――を受けていない気がする。強いて上げるとすれば、たぶん正月に過ごした隠岐の島での『島生活』くらいだろうか。
 しかし今日、『編集者という病』――幻冬舎を率いる見城徹の総括本を読んで、久々に頭をガツンと打たれた。のらりくらりと生きている自分に、生き方の修正を迫る強烈な一発だった。
 角川書店時代から出版界に数々の伝説を打ちだててきた見城は、「僕は僕を変えてくれるもの以外に興味がない」と言い切る。(「僕は僕を変えてくれるもの以外に興味がない」 いい言葉だ)。
 自分が本当に良いと思ったもの感動したものでなければ基本的に仕事をしない。彼が惚れた、書かなければ救われないある種の闇を抱える作家たちは、世界への違和感や内なる不安を七転八倒しながら原稿に焼き付ける。表現は彼らにとって自己救済と同じなのである。そんな彼らと誰よりも近くで関わり、誰よりも深く彼らの精神へと踏み込んでいく見城は、時に自分自身に返り血を浴び、時に狂気に見舞われながら、その一瞬一瞬の『生の実感』をかみ締める。
 ギリギリの刹那を生きるのが見城の生き方だ。そして「自分にはとても表現できない」と述べた上で、彼は石原慎太郎(や中上健次)の過剰な文学性について次のように語っている。
 「表現っていうのは、犯罪に近い行為だと思うんですよ。例えば奥平剛士のテルアビプの空港乱射事件。僕は学生運動の中で、現実の踏み絵を踏み抜けなかったっていう劣等感がいまだにある。行為として実践できるかどうかでその思想や観念の価値は決まると、僕は思っているのね。
 奥平はパレスチナ闘争の一環としてテルアビプの空港で20何人撃ち殺して、自分の足元に爆弾を投げて死んでいくわけだよ。その直前に、重信房子に残した言葉というのがあるんですよ。それは、『もうこの場に及んで思い残すことは何もない。ただ。たった一つあるとすれば、この難民キャンプを走り回る美しい目をした、必ず武器を持って続くだろう子供たちに、さよならも告げずにいくことだ』」。
 「そこには善悪という共同体の二分法なんてなくて、ただ奥平の実存だけがある。たとえば野村秋介が、ああいう形で自殺するわけだけども、彼が残した句に『俺に是非を問うな、激しい雪が好き』っていうのがある。是非の問題じゃないんだよ。是非の問題になっちゃったらもう社会通念の問題。そうじゃない、個体として生きようと意思した人間の句ですよ。石原慎太郎の小説というのは全部、それがあるわけですよ。最初の最後までその個体にかかっているんだよね。現実の踏み絵を踏み抜くこと、そのことの切なさと恍惚を描いている。集団、共同体っていうものを無化する小説を。」

 「是非の問題ではなく、個体がどのような意思の下に生きるか」が、大事なんだと。
 みんな、もう少し過剰に生きてみようよ。彼はそう言っているように聞こえる。もちろん過剰に生きようが小さく纏まって生きようが、それはすべて個体の意志の問題であるし、そもそも、大きく生きるのが正解で、ささやかに生きるのが間違いというわけではない。(見城自身は、ささやかに生きる生に対して尊敬の念を持っている)。
 その上でだ。僕はもう少し過剰に生きようかなと思った。もっと頑張ろうかなと思った。
 果たしてそのエネルギーの過剰性が具体的にどのように発揮されるのかはわからない。もっと他人の人生に関わっていくことかもしれない。寝不足で飲みまくることかもしれない。あるいは単に馬鹿野郎に馬鹿野郎って言ってやることかもしれない…。
 今の僕にわかることは、とりあえず、この人に会いたいということ。
 
 そして、激しい雪が好きということだ。

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おぐしの映画欄 2007

 1月(以下時系列)
                 
○ダーウィンの悪夢☆☆☆☆                フーベルトサウバー               
 秋刀魚の味☆☆☆☆                    小津安二郎
 博士の異常な愛情☆☆☆                 スタンリー・キューブリック     
 ロミオとジュリエット☆☆☆☆☆              フランコ・ゼフェレリ
 2月                     
 
○不都合な真実☆☆☆☆                   アル・ゴア  
 七人の侍☆☆☆☆                      黒澤明
 用心棒☆☆☆                         黒澤明        
○食の未来~日本版~☆☆☆☆               デボラ・ガルシア
○それでもボクはやってない☆☆☆☆☆          周防正行
○アトミックサバイバー(演劇)☆☆☆☆           西巣鴨の人達                  
 
 3月
 椿三十朗☆☆☆☆☆                     黒澤明
 ボーリングフォーコロンバイン☆☆☆           マイケル・ムーア
○チョムスキーとメディア☆☆☆☆☆            カナダの人達
 グッドナイト&グッドラック☆☆☆☆            エドマローとマッカーシー
 ニュースの天才☆☆☆☆                  スティーブングラス
●引越し日和(演劇)☆☆☆                  創造工房
 英語完全征服☆☆                      韓国映画
○新・魔界大冒険☆☆☆☆                  ドラえもん
 存在の耐えられない軽さ☆☆☆              ???
 シンドラーのリスト☆☆☆☆                 スティーブン・スピルバーグ
 スワロウテイル☆☆☆☆                   岩井俊二
●サボテンの花(演劇)☆☆☆☆               キャラメルボックス
 コーストガード☆☆☆☆                   キム・ギドグ
 打ち上げ花火 横から見るか下から見るか☆☆☆☆  岩井俊二
 四月物語☆☆☆☆                      岩井俊二
○絶対の愛☆☆☆☆☆                    キム・ギドグ
 カジノロワイヤル☆☆☆☆                  007
 4月
 ゴーストスープ☆☆☆                    岩井俊二
 モダンタイムス☆☆☆☆                   チャップリン
 子猫をお願い☆☆☆                     韓国映画
○クイーン☆☆                         エリザベス二世
○ブラッドダイヤモンド☆☆☆☆               デカプリオ
 5月
 大人は判ってくれない☆☆☆☆               フランソワ・トリュフォー
 ロードオブウォー ☆☆☆                   ニコラスケイジとか。武器商人の話
 シリアナ☆☆☆                         石油をめぐる利権の問題
●東京姉妹(演劇)☆☆☆                    創造工房
●永遠かもしれない(演劇)☆☆☆☆            シベリア少女鉄道
 殺人の追憶☆☆☆☆                     ポンジュノ
 オールドボーイ☆☆☆                     パクチャヌク
 6月
 親切なクムジャさん☆☆☆☆                 パクチャヌク
 ただ君を愛してる☆☆☆☆☆                 葵ちゃん
 シュガー&スパイス☆☆☆☆☆               沢尻エリカ
 君に捧げる恋歌☆☆☆                    ソンイェジン
 受取人不明☆☆☆☆                     キムギドグ
 7月
 柔らかい肌☆☆☆☆☆                    フランソワ・トリュフォー
 20の恋☆☆☆☆                        フランソワ・トリュフォー
●カレッジ・オブ・ザ・ウインド(演劇)☆☆☆☆       キャラメルボックス
●レ・ミゼラブル(ミュージカル)?????         帝国劇場
8月
 
○ザ・シンプソンズ☆☆☆☆                  ???
○ラッシュアワー3☆☆☆                    ジャッキー
 
 9月
 天国と地獄☆☆☆☆                      黒澤明
 グエムル☆☆☆☆                       ポンジュノ
 ハチミツとクローバー☆☆☆                 ????
 10月
 
 11月
○続・三丁目の夕日☆☆☆
  就職戦線異状なし☆☆☆☆                  織田裕二
  ハチ公物語☆☆☆☆                      原作・新藤兼人
 12月 
  時計じかけのオレンジ☆☆☆☆                キューブリック
●止まらずの国(演劇)☆☆☆                  創造工房
  フルメタルジャケット☆☆☆                   キューブリック
●俺たちに他意はない(演劇)☆☆☆ シベリア少女鉄道
オアシス☆☆☆☆☆ 韓国映画だよ
                
 

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有機農業のススメ②

 (遺伝子組み換え作物の危険性①はこちら)
  「アメリカでは、四社がほとんど作物の『種』を握っている。つまり彼らの種子倉庫がテロか何かで破壊されたら、それこそ食料危機になるわけです」
 子さんは、グローバリゼーションの名の下で少数の企業が世界の市場を覆い尽くす現状について警鐘を鳴らした上で、それぞれの地域ごとにその地域にあった農作物を作ることが、食料の体系や種の保存にとって一番だと続ける。「農家は自分が本当に美味しいと思うものを作ってそれで自給自足する。その延長線上に消費者がいればいい」と。
 そして現在、そのように農家と消費者を直接に繋ぐような動きが高まってきている。たとえば、『直売店』の増加にそれが見てとれる。かつては農家と消費者の間には、多くの中間業者が媒介していた。それの最たるものがJA全農で、彼らが農家から一括で農作物を買い取り、それを卸売り業者へと回し、市場に売り出していた。
 しかし現在、増えつつある直営店を通じて農家が自分の作物の値段を決定し、その品質と値段に納得した消費者が作物を購入する。品質が良く美味しいものを作りたいという農家と安全で美味しいものを食べたいという消費者の関係がこのように『顔』の見えやすい直営店を媒介として機能しているのだ。
 
 中間マージン料が少ない、品質の良いものが売れる、消費者とのコミュニティーが生まれる……。このように言うと良いこと尽くめのようだが、他方で直売店はリスクも伴っている。
 卸売りや農協の場合ならば、『事前一括買い取り』制度のため、作物を売り払った分だけの(安いながら)お金が手に入る。だが直売は『委託販売』を採用しているので生産者同士の競争は厳しくなり、自分の作物が売れなければすべて生産者の自己責任で一円も入ってこない。さらに直売店への商品の搬入やバーコード付けなどの煩雑な作業もこなさなければならない。
 ある程度の負担はやむをえないものの、やはり直売店の魅力は余りあると言える。直営所は商品の媒介地としてだけではなく、人と人を繋ぐ『コミュニティー』としての役割を期待できるからだ。災害時における食料供給場として機能したり、農作物(野菜やコメ)とその地域独自の『地域通貨』を交換したりと、地域コミュニティーの新しい形となることが期待されている。
 
 埼玉の小川町では、家庭から出る生ゴミや残飯を特殊な施設で液体肥料として資源化するいう試みを行っている(小学校の給食のゴミも再利用している)。そしてその活動に関わる住民は、ゴミの変換量に応じて年に二回の野菜交換会に参加できるという。「まだまだ費用や施設不足の問題で不都合はあるが、今後支援者や参加者が増えてくれば、この運動を恒常的に行い、少しでも循環社会を実現したい」。NPOふうどの関係者はそのように話している。
  「それぞれの地域・土地ごとにそれぞれの豊かな農作を!」。
 大規模化し規格化してきた農作であるが、より安くより効率的な商品の追求という国際競争スローガンだけでは解決できない種類の問題も存在する。豊かで安全な食の確保が喫緊の課題である現在こそ、アメリカからの遺伝子組み換えにNOと言い、自分たちの食は自分たちで作らなければならない。地域に根ざした有機農法の拡充こそが小さいながらも食料自給率の問題を解決する第一歩である。
 ちなみにキューバはソ連崩壊後、カストロの指導下で食料自給の確保をスローガンとし、国内の8割以上が有機農業にすることに成功している。またヨーロッパがアメリカの遺伝子組み換え作物を拒否できているのも、食料を自分たちで確保できているからというのが大きい。
 「農業に参加してみる。直売店を訪ねてみる。有機野菜を買ってみる。新聞にこの話題が出ていたら注意して読んでみる……」。一人ひとりができることは少ないかもしれないが、取り組めることはたくさんある。去年、国会を通過した『有機農業推進法』によって本当に事態が推進されるのかわからないが、金子さんが言うように「自分の地元の小・中学校では、地元の有機作物を使う」くらいは実現させてほしい。(そういえば杉並区の和田中学校は『食育』でも模範だったんだよなぁ、さすがだ☆)。
 オレもそろそろマックに行くの辞めようかなぁと思いますが果たして……。 

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遺伝子組み換え作物の危険性①

 
 袋から東部東上線で下ること70分のところにある埼玉県小川町。早くから有機農法への取り組みで有名な地域であり、最近では家庭から出る生ゴミを資源化し、町を循環させようというプロジェクトを始めている(ただし役場の主導ではなく住民の主導)。今回、私は『NPOふうど』という団体の会議に参加させてもらった。そこで聞いた話と自分が調べたことを合わせて少し紹介したいと思う。
  「遺伝子組み換えの農作物は、何万年と続いてきた食の体系を根幹から崩してしまう。今こそ有機農法を推進していかなかればならない」
 NPOふうど主催の講演会でそう語るは、小川町で三十年以上も有機農法を実践してきた金子さん。昨年の12月、超党派の議員立法で『有機農業推進法』が国会を通ったことを金子さんは「百年に一度の農業改革」だと評価する。近代に入ってから農作を大事にしてこなかった日本は食料自給率が40%と先進国では突出して低い。誰もが欠かせない大豆は5%、とうもろこしに至っては0%。日本はアメリカ産の遺伝子組み換えの食物に頼らざるをえない。このような状況を打開する転機がいまやってきたのだ、と。
 
 では、そもそも遺伝子組み換え作物とは一体どのような作物で、どのように危険なのか。
 それまで(第二次大戦後)農家は除草剤などの農薬を殺虫効果として使っていたが、90年代に(アメリカで)遺伝子組み替え技術が登場したことによって、除草剤に対して耐性のある作物が生まれ、除草剤(農薬)の量を減らせるようになった。また作物それ自体に殺虫効果を組み込んだ作物が開発された。つまり、外側から『化学物質』を注入してコーティングするのではなく、細胞の中に耐性効果や殺虫効果を有した作物を作り出したのである。
 結論から言おう。このバイオテクノロジー技術は、基本的に消費者の利益にはならないだけでなく重大な危険性を伴っている。食料危機を解決するとか良質のものだけを採取できるなどと喧伝されるが、これはありえない。この技術開発が目指しているところは、畢竟、バイオ業界や大企業の利益に他ならないのである。
 もっとも大きい問題は、少数の大企業が持つ遺伝子組み換え作物が、それまでの植物や作物の種の多様性を破壊してしまうことだ。遺伝子組み換えの作物が流通すれば、虫や鳥、風などで飛ばされた花粉などが、それぞれの地域ごとに自生する作物に入り込み、それまでの多様な種の体系を壊し均一化させる。実際に日本においても、トウモロコシやナタネなどのそれ自体が種子である作物がトラックから飛び散ってところどころに自生していることが確認されている。
 また恐ろしいことに、特定の組み換え遺伝子の種類を『特許』として認定することがアメリカで制度化されている。この制度によって、たとえばアメリカでは、遺伝子組み換えを使っていない『ナタネ』農家の農地に、『モンサント社』の開発した遺伝子組み換え作物が発見されたとしてシュマイザー氏が裁判所に訴えられた。虫か風が運んできて自分の農地に入り込んだだけで、むしろ被害者であるはずのシュマイザーさんが、この遺伝子『特許裁判』で敗訴。自分の伝統の農作物を破壊された上、そのナタネをすべて没収されてしまったのだ。(ちなみに『モンサント社』は、一万以上の種の特許を持っているという)。
 このように少数の企業が自らの利益のために、市場を独占している状態が健全なわけがない。②では、このような体制にNOを掲げて『有機農法』を目指す試みを紹介する。
 参考 → 食の未来DVD及びそのテキスト

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それでもボクはやってない

 「裁判所は真実を明らかにする場じゃない。有罪か無罪か『とりあえず』確定するだけだ。」
             
 「なた痴漢したでしょっ」 朝の通勤ラッシュ、電車を下りた途端、腕を掴まれた金子(加瀬亮)は、何が起こったのかわからなかった。無責任な駅員に促され、現場検証をしないまま警察署へ強制連行。取調べ室に入った瞬間から「お前がやったんだろ!!」と恫喝され自白強迫の連続。まったく機能していない建前の『推定無罪』。「ボクはやっていない」と言っても誰も全くまともに取り合ってくれない。
 面会した当番弁護士までも次のように冷たく言い放つ。「否認して起訴されれば、99,9%は有罪になるんだから今のうちに罪を認めて示談したほうがいい。裁判は大変だし時間が掛かるし」。
 このようなカフカ的不条理の中、金子は自らの潔白を争い戦っていく。母親、友人、心ある弁護士や同じ境遇にある被告とともにゼロの状態から『司法の現実』を学びながら無実を訴えていく……。
× × × × × × × × × × × × × × × × × × × × × ×
 この作品のテーマは、司法システムに対する懐疑・問題提議である。
 その中でも特に印象深かったのは、無罪判決を出すことに対する裁判官の『恐れ』だ。
 上記でも述べたように、刑事裁判における有罪率は99,9%。無罪を争う公判においては、97%程度が有罪判決を受ける。つまり裁判の場に持ち込まれた場合は100人に3人しか無罪にならないという現実がある。これは一方で警察や検察の優秀さの証明として見ることもできるが、他方、この数字が無罪の判決を出しにくい雰囲気を生み出しているとも考えられる。
 映画の中では、「裁判官は事件をどれくらい処理したかの数とスピードが重要だし、警察・検察を敵に回すと出世に影響してしまうから」として、無罪を提出するのに無言のプレッシャーが加えられることが指摘されている。
 これらの指摘が、『裁判員制度』を見据えていることは言うまでもない。一般市民が裁判に加わることによって、プラス面にせよマイナス面にせよ、司法システムや国民に対して様々な影響が考えられる。たとえば、難解な法律用語が分かりやすく身近になったり判決に対するチェック意識が増大したり、結果的に国民の民度が全体として高まるといわれている。
 しかし個別の問題は予測不能な形で残っている。外的要因の関係から言えば、世論を圧倒的に形成しているメディアが推定無罪を実質的に無視し、『犯人視』報道を繰り返すことで、裁判員たちに事前に先入観を植え付けかねないかということ。そして厳罰化の流れを背景にして、『悪い奴は吊るせ・殺せ』という怒号が吹き荒れないかが心配される。
 あるいは、市民が参加することで、裁判官の判決に対する責任や責務が、軽くなってしまうことも問題として指摘される。判決が気楽に出せるようになるといったら裁判官に対して失礼かもしれないが、先の99,9%の有罪率が背景にあるという事実が判決の言い分として使いやすいのと同様、そのようなある種の『気楽判決』の出現可能性もないとは言えないのである。
× × × × × × × × × × × × × × × × × × × × × ×
 去年、友人と二人、ライブドア堀江さんの裁判を見るために東京地裁へ行った。だが朝の抽選で早くも脱落。仕方ないのでその日に行われる公判の中から面白そうなものを傍聴することにしたが、そこで傍聴したケースが今回の映画と同じ、『強制わいせつ罪』であった。
 大変不謹慎であるが、その話が非常に馬鹿馬鹿しいけど人間ドラマに溢れていて笑ってしまった。40歳前後の中年の男性は、不倫相手の家(おいおい!)から仕事場に向かっている朝の通勤電車で、中学生に対して痴漢を働いた。しかも一度、下りる人の波に押されて駅ホームに出たにも関わらず、再度彼女の後方へと近づいてさらに痴漢を再開した……。
 結局、男性は、女の子の勇気ある声で御用となった。彼は、妻子持ちで、子どもは女子中学生だった。驚いたのは、彼自身、数ヶ月前に、埼京線で痴漢を働いている男性を見つけて取り押さえたことがあるという。「痴漢を心から憎んでいました。わたしは自分のことを(痴漢を)取り締まる側の人間だと思っていました」という。彼自身、その痴漢事件では、警察署まで同行、公判においても参考人として証言までしていた。「痴漢は絶対にしてはいけない」と。
 「そんなあなたが、なぜ痴漢を犯す側になったのですか?」 いきおい検察だけでなく、弁護人、裁判官からも質問が飛び出した。基本的にはこういう痴漢の公判では動機の探求は行われない。この映画の中でもそういうシーンは皆無だった。なぜか。それは言うまでもなく、『男』であるという「事実」自体が痴漢をするに足りる相当の動機として考えられているからだ。男であれば、誰でも痴漢の動機を持っており、誰もが潜在的な犯罪者と思われているのだ。
 なんとも失礼な話である。まっとうな男性とっては恐ろしい世界である。しかしながら、裁判所で見たおじさんのように、実際、一寸先は誰がそうなってもおかしくはない。ミラーマン植草(もしかしたら『それでも』やっていないかもしれない笑)にせよ先の中年の男性にせよ、僕たちはそれを見て笑ってばかりはいられない点がまた怖い。「魔が差した」「本能のせいで」みたいことで、痴漢を犯す可能性は男性なら誰でもあり得る。そう思ったほうがいい。
 そういう風に自分が犯しうる犯罪可能性を常に頭の片隅に入れておくことが、自分の犯罪可能性を減らす大事な方法である。裁判所のおじさんは、たぶん自分だけはそんなことはしない、自分だけはそんな『馬鹿な種類』の人間ではないと思い込んでいたのだろう。社会学の用語で言えばそういう振る舞いを『切断操作』というが、自分を想定の外(自分だけはしない)に措定してしたときが一番危ない。自分の「バカさ」をどこまで考慮しているか、それが大事だ。
 と言うわけで、痴漢に間違われたら迷わず一心不乱に走って逃げきりましょう(笑)。

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ホームレス問題を考える③

  (ホームレスになってみよう①はこちら)   (ホームレスになってみよう②)はこちら
             
 ームレス問題を論じるに当たって主に二つのことを述べたいと思う。一つはホームレスの数を巡る問題について。もう一つは公共性を巡る問題についてである。
 
 ホームレスの出現は、基本的に、社会(問題)現象の先鋭化した結果だ。借金が増えすぎて返せない。働いても生きる希望がない。働きたくても働けない。そういう状況の中で、彼らは公園や駅に逃げ込み、そこで生活を始めるのである。僕は彼らが出現してしまうのはある意味で仕方のないことであると思っている。意欲がないとか気合がないという問題もあるかもしれないが、どの社会システムにも一定数出てきてしまう存在ではないかと自分としては捉えている。
 問題はホームレスの、その「一定数」をどのように定めるか、どこまでが「仕方がない」線で、どこまでが「許されない」線なのかを決めることである。これは難しいが、極めてクリティカルな問題だ。
 たとえば、フリーターの問題にもこれは当てはまる。非正規雇用で適当にブラブラ生きているフリーターが増えると社会が不安定で危険になると言われるが、現実問題として、彼らは常に一定数の割合で企業から必要とされている。むしろ現在、フリーターは足りていないし、企業はもっともっと非正規雇用の人材を欲しているのである。そう、フリーターは『一定数』必要とされている。では、その一定数は一体どこで線引きを計るのであろうか。  
 フリーターは言うまでもなく、生活保護予備軍かつホームレス予備軍である。企業は利用しやすい労働力を増やしたいと思っているだろうが、それを推し進めすぎると社会が不安定になってしまう。ホームレス同様に、フリーターもどの線までが許容できて、どの線からが危険水域なのか。これを統計的に実証していかないと今後の政策デザインは描きにくいと思う。(多分、ホームレスの統計は、市町村単位かある種のNGOがやっていると思うけど、僕も時間と機会があったら一緒に調べてみたい)。
× × × × × × × × × × × × × × × × × × × × × × × ×
 さて、本題は次である。
 公園の中を観察したり、ホームレスから聞いたりして気がついた。ホームレスは、『社会(共同体)から排除された(あるいは逃亡した)存在でありながら、また公園内でも共同体を構築している』ことを。やはり、「一人では生きてはいけない」ということなのだろうか、自分のテリトリーを確保し、公園内でネットワークを作り、食べ物を与えたりもらったりして相互扶助の下で生活している。驚いたことに、ホームレスたちは、『緩やかな連帯』として、『排除された公空間内で共同体を作っていた』のである。
 さらに問題なのが、そのホームレスの中においても、『緩やかな連帯』に「順応できる人間」と「順応できない人間」が存在することである。後者は排除された中でさらに排除されるという、生きる上では最悪の環境に置かれている。例えば、公園共同体の中でも、騙しあいや窃盗などが頻繁に行われている。Tさんが、「ほんの10分、テントを離れただけでしょうゆが盗まれた。今は、あまり出歩くことが出来ない」と漏らしていたように、一方ではブルーシート公園共同体があるが、他方では各々は孤立し分断されていて、同一集団の中でも「顔」の見えないホームレスが存在するというのだ。
 
 近年、駅や公園内からホームレスを追い出すという運動が強くなっている。この排除の背景には、異質な他者に対する不寛容もあると思う。「どうして俺の稼いだ金を奴等に使わなければならないんだ」という見も蓋もないコメントから明らかなように自分は自分、他人は他人という考えが支配的になってきたことも関係があるだろう。もちろんその他には、ホームレスの数の増加やマナーの悪化などがあるし、自立支援の運動――その公園共同体を一旦、追い出してしまえば依存から自立へと向かわせる契機となるだろう――も排除の背景の一つにあると思われる。
 
 実際、大阪では機動隊が、ブルーシートを破壊してホームレスを追い出している。だがもちろん単に共同体を消滅させ、ホームレスを追い出せば自立に繋がるという短絡的な問題でもない。むしろ、ブルーシート共同体を破壊することで、社会の問題をより覆い隠すという種類の厄介な問題も潜んでいるのである。ホームレスの存在は言うまでもなく社会にとって良いものではないが、彼らが見える位置に、ブルーシートとして可視化されていることは、ある意味その存在自体が「ここに社会問題がある」と異議申し立てしていることに他ならない。それを人々の見えないところに塵々バラバラに排除してしまえば、その社会問題自体は、不可視のまま温存された状態で先延ばしされることにも繋がるのだ。
 
 実際、横浜のNPOの人に聞いた話によると、ホームレスがバラバラに分断されてしまうと、いま現在、彼らがどれくらい存在していて、彼らが何に苦しんでいるのかの統計が取れなくなる(なっている)という。公園共同体が破壊されれば、ホームレスが連帯して社会に意義申し立てする機会もなくなるし、誰がいつ死んだのかもわからない(そのまま気がつかない可能性すらある)。「ホームレスにはそんなことを主張する権限はない。彼らは死んだって構わない」と言うのであれば話は別だが、そういう社会構成員が大多数になったときには、遅かれ早かれ、日本が滅びてしまうことは目に見えている。
 異質を排除して目の見えないところに追いやる。しかしこれは一方、問題を温存したまま解決を先延ばしにする面がある。彼らの存在を社会に対する「意義申し立て」として捉え、まっすぐ直視し、統計的な計算の下で、政策をデザインしていくべきだと僕は思う。
 (『公共性』を巡る議論については、本質的なところでは『土地は果たして国家のものか』という部分まで遡って考察する人もいる(馬鹿馬鹿しいけど笑)。去年の現代思想7月号がホームレス問題を扱っていて、大阪と東京、横浜のホームレスが対談しているのが興味深かった。興味のある人は一読をお勧め)。

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ホームレスになってみよう②

  (ホームレスになってみよう①はこちら)
 スバーガーで目を覚ましたら午前8時過ぎだった。急いで公園に戻ってみると、あら不思議、僕の即席テントは跡形もなく消え去っていた。「やや、やられた!!」 都の職員か他のホームレスに持って行かれたのだろうか。いずれにしても、傘とブルーシートの代金1000円が水泡に帰してしまった……。
 ホームレスと朝のラジオ体操を気持ち良くしようと思っていたが(ホームレスが参加しているかは不明)、その計画が潰れてしまった。仕方ないので公園を歩いてホームレスへのヒアリングを開始した。
           
           
                    
                  (公園のブルーシート街@12時撮影)
 
 テント周辺にはまだホームレスがいない。ひと回りした後、『ナイアガラの滝』の正面に下りて一望してみると、ベンチで顔を埋めて座っているホームレス(らしき人)たちを発見。さっそく一番右のベンチの、黒っぽいトレーナーにニット帽子を被っているおじいさんに話しかけてみる。
 「どうもこんにちは、今日も冷えますねぇー。実は昨日、僕もあそこにブルーシートを張って寝泊りしていたんですよ。ほんとに雨は嫌ですね。あはははは」。何だコイツと言う目で俺を見るおじいさんは、しかしまあ、どこかで見た気がする。どこの誰だったっけ?……あ、そうだ。和田中学校のよのなか科で話をしていたTさんだ! (こちら→参照)。「えーと、もしかして和田中に来ていたTさんではないですか?」 「ええ、そうですが」 「あーやっぱり!!自分もTさんが話をされていた授業に参加していたんです。それで今回、ホームレスをやってみようと思ったんですよ」。
 『よのなか科』(のご縁)で意気投合したTさんとは、これからベンチで三時間ほど歓談をすることになった―。
 僕がまず聞きたかったのは端的に「寒くないのか」ということだった。昨日自分が過ごしてみたところでは寒くてとても耐えられなかったが、Tさんはそれに対してきっぱり「まったく寒くないですよ」と言う。ダンボールを敷いた上にブルーシートを何重にも重ねて、それに毛布と布団を被れば全く寒くない。雨が降った場合でも、彼の頑丈なテントなら問題はない。ただし、雨に弱いテントのホームレスたちの場合は、都庁の西館の下へと逃げていくそうだ。昨日、僕の横にいたおじさんも、屋根のある場所へと逃げていったように―。
 お金は一切持っていないが食べ物には困っていない。最近ではもっぱらホームレスの仲間が食べ物を持ってきてくれるし、必要になれば拾いに行くし、知り合いのお店から分けてもらえるからだ。むかしは相棒(今はアパートに入ってしまった)と一緒に、美味しいものばかりを狙って懇意のお店を尋ねて塊のお肉や魚を食していたそうだ(というか食べきれないそうだが)。
 この公園内のホームレスの数の印象について尋ねると、「数的にはあまり変わらないんじゃないか」とTさんは答える。毎週日曜日のお昼にある炊き出しには、常に300人ちかくの人達で溢れ帰っている。先週も公園いっぱいに列が出来るほどだった。「いや、ただし」と留保をつけて彼は続ける。「ブルーシートテントを張る人達は、かなりの数が減ったんだ」。例えば、上の写真では約10ほどのテントが残っているが、つい最近までは30近いテントが公園中に張り巡らされていた。しかし自立支援活動の普及によって、テントをたたむ代わりにアパートへ入っていく人達が増えたのだ。
 「大阪ではテントを守る人と機動隊で衝突があったと言うから、正直ここも、いつ追い出されるかわからない。今度の東京マラソンでは公園が会場になっているからすぐにでも強制的に退去させられるかもしれない」。Tさんは不安げな表情を見せたかと思うと、今度は一変して楽しそうに続ける。「ほら、都庁のビルが目の前だろ。上から公園は丸見えなんだ。テントを作ろうとしていたら、すぐに連絡が入って警備の人がやって来たりするんだ。この間は、みんなでデモをしていたら、石原都知事が下りてきて、『無用な人間には早急に立ち去ってもらいたい』って言われたよ。彼の部屋からは公園が一望できるんだよ」。(←まさにパノプティコンだー笑)
 Tさんは追い出されることに対してそれほど未練があるわけではなさそうだ。「まあ、その時はその時だから」とさっぱりしている。ただそれが「どこでも生きていける」という自信なのか「もうどうでもいい」という諦観なのかはわからない。僕はホームレスの社会的な位置づけは別として、その生活自体はそれほど悪くはないなと思っている。家賃もないし、高熱費もないし、食費もない。『~しなければならない』という義務もない(当然税もないから笑)。そして公園共同体の中では、緩やかな連帯もある。彼らは意外と生活を楽しんでいるのではないのか。Tさんに聞いてみた。
 「いや、ホームレスなんてロクデモないよ。ダメ人間の集りだ。働かないで酒ばっかり飲んでいる。元々みんな何だかんだ借金を作ってトンズラしてきた連中ばっかなんだ。役所の世話になってアパートに入らないのだって、働くのが面倒で借金を払うのが嫌だからだ。仕事なら探せばいくらでもある。それでも働かないんだから」。
 僕はこのような問いかけをあと二人のホームレスに投げかけた。彼らの答えも上と同じなものだった。「ホームレスなんて社会のゴミだ。とても世間に顔向けが出来ない」。そう彼らは言っていた。
× × × × × × × × × × × × × × × × × × × × × × ×
 その内の一人のテントは新宿公園で最も大きいと聞いたので、厚かましくも中に入れてもらった。
   
                   (広いテント、というよりも完全に家です)
 
 広さは6畳弱で(俺の部屋より広い笑)、下には絨毯が敷き詰められている。上には布団や洗濯物が干されていて、本や食器類もすべて揃っている。またガスコンロや七輪も置いてある―。僕のアパートより住みやすいことは確実だ。そこの住人(?)のSさんは、絨毯の汚れをガムテームで取りながら語る。「下にはダンボールを何重に敷いてその上にベニヤ板、ブルーシート、そして絨毯の順に入れてある。火もあるから全然寒くない。雨も問題ない。なかなか住みやすいよ」と。
 この家(!)を作るのに三時間も掛からなかったというから、これはある意味才能だと言っていいと思う。これを何か仕事に生かせばいいのにと冗談っぽく言ってみると、「この生活を体験してしまったらもう戻れないよ」と笑顔で返答。「じゃあ、やっぱホームレスは楽しいんですか?」と続けざまに問いかける。「いや、全くそんなことないよ。起きてボーっとしているだけでやることないし…」。そう語るSさんはラジオ競馬を聴きながら広げたスポーツ新聞を眺め、結果を楽しそうに待っている。
 部屋の真ん中にあるテーブル。その上のノートには、毎日の献立のメニューが記されている。今日の欄にはロールキャベツ。「これは、一体何ですか?もしかして毎日料理を作っているんですか?」 彼は笑顔で言う。「そうだよ。毎日誰が何の食材を持ってくるかを把握していて、それを下に僕が朝と夜の食事を作っているんだ。だからここで朝と夜は仲間と食べているんだ」。
 「はぁー」と言うしか無かった。ここで食べて生きていけるのであれば、たしかに普通の生活に戻る気はしないなと思う。ただ、彼らは決して自分から「ホームレスって良いんだよね」とは言わない。様々な悩みもあるだろうし、世間の目もあるのだろう。常に「ダメ人間」で「社会のゴミ」だと自らを卑下して表現する。彼らがダメかゴミかは僕には分からないが、自分たちをダメだと思っている事実には共感できた。ホームレスの生活が最高だと開き直られては流石にそれは困る。フリーライダーのくせに何をいうかと怒りたくなる。でもそうはいっても社会があるところ、逸脱は必ず生まれるし、ちょっと変わった人も出てくる。この変人(僕は別にそうは思わないけど)の存在をどこまで許容しどこまで縛るのかの判断は本当に難しい問題だ。都庁も頭を悩ませているであろう(石原さんはもう態度は決まっているようだが)。
 この問題を次に考えてみようと思う(答えはないけど)。

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ホームレスになってみよう①

 後18時、新宿駅の西口から都庁への地下道。仕事帰りのサラリーマンやOLたちが新宿駅に向かって足早に通り過ぎていく。僕は、寝袋を詰めたリュックサックを背負い、その人の流れに逆らうように突き進む。目的地は新宿中央公園。そこには今も多数のホームレスたちが生活している。自分から希望してなる人はいないと云われるホームレス。だが本当にそうだろうか。実は、その生活自体が楽しく愉快だと肯定的にホームレスをしている人はいないのだろうか―。そんな疑問をはらすため実際に自分でホームレスをやって検証してみることにした。
 
       
      (地下道を不法に占拠されないために、凹凸のブロックが敷き詰めてある。)
 この日の天気は、携帯の予報によれば、晴れのち曇り(一時雨)。暗くなり始めた空はどんよりしている。今にも雨が降りそうでこわい。「もし雨が降ったら傘とレインコートとダンボールで防げるのか。風邪を引かないか」 これらの不安がずっと頭について離れない。
 正面の『新宿ナイアガラの滝』という名所(?)の左側から公園に侵入する。見渡すと、右端のほうにホームレスの寝床の象徴であるブルーシートが三つほど並んでいるのを発見。僕は、公園をひと通り回った上で、どこに寝床を設定するか考えることに決めた。
 新宿公園は、それほど広くない。日比谷公園と同じくらいかと思ったが、それより一回りも二回りも小さい。だが、むしろそれゆえだろうか、妙に秩序立っていて整然としているように見える。芝生にはすべて立ち入り禁止のガードが張り巡らされ、歩道にはゴミがまったく見当たらない。しかも警備の人達が常に巡回している。正直、予想外、イメージしていたのと違っていた。これでは寝床を作れるような地味なスペースがないではないか。そう思っているとき、ついに右の奥ほどに大量のブルーシートの郡が姿を現した。立ち入り禁止と記してある看板の内側に、10個前後、ブルーシートで作られたテントが窮屈に並んでいる。「おお、これだこれを探していたんだよ!!」この目の前に寝床を設定した。
 次はダンボールとブルーシートの調達。「すいません、ダンボール、あるだけください!」 早速、近くのコンビニに突入して尋ねる。応対した店員さんに怪訝な顔をされながらも、これを繰り返すこと3回、僕は7つのダンボールを入手することに成功した。さらに近くの専門店でブルーシートを二畳分600円で購入。これですべての用意はそろった。準備完了である。
 先の場所に戻り、ダンボールを潰して地面に広げた。2畳ほどのダンボールの上にブルーシートを敷いて、傘を2つ、風避けとして横に広げて置いて、さあ、完成だ。この時、時刻19時半―。
 寝床にドテンと寝転がり薄い照明の下で本を読んでいたら、突然、隣にホームレスのおじさんが大荷物を背負いやって来た。ブルーシートに包まれ置いてあった荷物から推察するに、おそらくここが彼のテリトリーだったのだろう。僕の存在にはまったく気に掛けることなく、プイと背中を向け、シートと傘を広げて寝転がってしまった。「おいこら、隣にニューカマーが入ったんだから挨拶くらいしろよ」、と文句をごちたくなったが、万が一、怒らせてしまったらそれはそれで困るのであえなく断念する…。そうして、じりじりしているうちに、ついに雨がぽつりぽつり降ってきてしまった。
 雨を感知すると、そのおじさんは颯爽と立ち上がり、荷物を持ってどこかへ消えてしまった。だが、それを気にしている場合ではなかった。この寝床を雨用に改良しなければならない。二つの傘と余っていた原型のダンボール2つの上にブルーシートを乗せて、その間に体を滑り込ませた。これによって何とか上手くシートによって雨を防ぐことができた(?)。そうして僕は寝袋に包まって安らかな眠りに着いた。
            
 
 …ん、寒い。足が寒いぞ。なんで?どうして?WHY?「あ、俺、外で寝ていたんだ」。僕は目を覚ました。時刻は午前2時過ぎ。雨は止んでいるようだ。だが、とにかく、寒い。ぶるぶるぶるぶる。震えが止まらない。靴下は二枚重ねて履いている。でも足が寒い寒すぎる。いやむしろ体全体が冷たい、気がする。やばいなやばいな。どうしよう。…さあ、逃げるかおぐし耐えるかおぐし。ここで逃げたらホームレスの人の気持ちになることはできないぞ。いいのか、それでいいのか。いやそれはだめだ。やっぱり頑張ろう。…いやでも寒い。本当に寒い。もうホームレスの気持ちなんてどうでもいいじゃないか。体の方が大事だ。そうだ、ホームレスなんてどうでもいい!!いやでも……このような問いかけがおぐし内で延々2時間続いた。
 そして午前4時、僕はモスバーガーに逃げ込んでいた。

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不都合な真実

 「温暖化は、政治の問題ではなく、モラルの問題です」
 米国副大統領のアル・ゴア氏はスクリーン上でそう連呼する。これまで優に1000回以上、各地をレクチャーして回ったという彼は、衝撃的な映像やグラフィックを駆使しながら、雄弁に地球温暖化について説明する。地球が誕生してからどれほどの気温の変動があったのか、またそれと比べて、現在の気温がいかに異常であるのかを上昇するクレーンに立って声高に警鐘する―。
           
 データによれば、今世紀末には、最悪の場合、海面は6メートル、温度は6,3度も上昇すると言われていて、4度の上昇でも、約30億人が水不足に直面し、多くの水生生物は絶滅すると予測されている(毎日新聞より)。もうすでに人が住むことができないほどに深刻な島も出てきているという。
 他方、アメリカでは、温暖化現象の原因は人為性に帰属するという説に対して懐疑的な研究も存在してきた。しかし、それはすべてでっち上げだとゴア氏は述べる。新聞紙面ベースでは、その半分が温暖化に対して否定的な意見を載せているが、過去10年間の専門誌を調べてみると、温暖化を否定する論文はひとつもなかった。つまり、科学的な実証を無視した前者の(利益団体に扇動された)マスコミが、間違った世論を形成してきたのだと。
 彼は、民意が動けば政治も動くとして、とにかくこの事実を声高に訴える。(実際にブッシュ大統領も先の一般教書演説で環境問題を課題として取り組むと述べている)。環境に対して意識的でなかった人にもインパクトを与えられるという意味においては、非常に有意義な映画だろう。お勧めお勧め。
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 一方、この映画が日本人にとっては、あまり有効に作用しないのではないかと僕は危惧する。なぜか。ゴア氏は、アメリカがいかにこの問題に対して真摯に取り組んでこなかったのかを淡々と述べ、たとえば、自動車のCO2排出率の異常な高さを、特に日本やEUと比較して警鐘を鳴らしている。「アメリカはこのままでは、世界において行かれる。車も売れなくなるだろう。これでいいのか!」と。
 しかしそれが、あくまで「人類の未来が危ない」という博愛主義の文脈よりも、「環境問題に取り組めなければ国際競争力が低下してしまう」というパワーポリティクスの文脈の中で語られていることは明白であろう。その意味で、この映画は環境のゲームの中で、今アメリカは、「劣等の位置にある」から「今後頑張ろう!」という鼓舞に繋がるが、他方で、いま日本は「優等生の位置にある」から、それは結局、「あーよかった」という自画像の強化にしか繋がらないのではないかと思うのだ。
 ただ問題なのは、実際、日本はもはや環境問題において優等生ではないということだ。温室効果ガス6%の削減目標に対して、8パーセントが増加していて、今後は14%削減しなければならなくなっている。ドイツは着々と目標をクリアしつつあるし、EUもそれに続いている。超優等生のスウェーデンに至ってはもう80年代からマイナスを達成していている。またイギリスはブレア首相の下、確実に足元を固め始めている。
 
 アメリカだって、ホワイトハウスはまったく動いていにように見えるが、実は自治体や議員単位では水面下で取り組んでいるという。これから二年後、民主党に変わった瞬間にいきなり転換、環境のイニシアティブを取ってしまうということは十分考えられるだろう。参考
 地球に優しい面と国際政治の面での、環境を巡る問題はこれから熾烈な争いになることは間違いない。日本は政府として、温室効果ガスを一体どのように減らすのかを議論しなければならないし、国民は、その企業がどれほどクリーンなのかについて目を凝らしたり、その議員が環境問題にどれほどコミットしているのかという点も考慮して選挙に反映させたりする必要がある。 国民もモラルを問われているのだ。
 

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