あなたは聞き上手ですか

 日、みんなでボウリングに行く予定だったが、急遽中止になった。
 さてどうしようかと思って歩いていたら、大学の立て看板に「あなたは聞き上手ですか」と書いてあるポスターを発見した。よく見てみると、臨床心理の先生が、「上手な話の聞き方」について教えてくれるというものだった。主催は、学生総合センターらしい。
 人の話を上手く聞けない症候群のぼくは、一緒だった友達とさっそく行ってみた。
 大学院棟の教室に入ると、なんと、そこいるのは3人だけだった。あとから来た人も合わせて、全部で参加者は7名だけ。先生を真ん中に囲んで、少人数の「聞き方上手」講座が始まった。
 簡単な心理学レクチャーを受けたのち、いきなり実践に入った。
 一人を『話し手』、一人を『聞き手』として選んで、みんなの前で10分間会話をしてもらう。目的は、聞き手がどのように話し手の話を聞いているかについて、みんなで観察し、聞き手の悪い癖を発見しようというもの。テーマは無い。何でも自由に話して構わない。
 二人の会話が始まった。お互いに自己紹介して、聞き手が話し手に対していろいろと質問をしていく。どんなことをしている人なのか、どんなサークルに所属しているのかなど、「プロフィール」的なことを途切れることなく聞いていく。ただ、時にボクシングサークルの話題を振ったり、時にバイトの話に変わったり、正直、ぎこちない印象を受けざるをえなかった。
 区切りの良いところで、先生が止めた。
 「どうでしたか?」。聞き手に聞くと、緊張した面持ちで、「あんまり上手く聞けなかった」と答える。逆に、話し手は「あんまり自分がしゃべりたかったことがしゃべれなかった。」と不満そうにいう。
 「なるほど」。先生が解説する。
 会話のぎこちなさの原因は、話し手の不満―「自分がしゃべりたいことがしゃべれなかった」―に要約されている。聞き手の男は「たくさん質問することで、彼との共通点を発見できる。そうすればお互いに円滑なコミュニケーションが取れると思った」から、プロフィール的な情報について詳しく聞いていたのだという。しかし、問題はそこではない。ボクシングをしていたときに何を思い、どんなことを感じていたのか――話し手は、その具体的な「気持ち」の部分について聞いてもらいたかったのである。
 次のもう一組も、だいたい同様の結果だった。 
 聞き手が、自分の聞きたいことに合わせて質問して、話し手が話したいところを無視してしまう。相手の情報の中でも自分にとって有益なものを引き出そうと質問する。だから、自分のフレームに合う話を優先的に選び取って聞いて、相手のフレーム(話したいこと)については等閑してしまったと。
 × × × × × ×
 聞き手をやった男性は、今までは「自分のコミュニケーション能力や相手から話を引き出す技能に自信を持っていた」と言っていたが、今回の結果を受けて、少し凹んでいるようだった。
 彼は、当初から「コミュニケーション」をある種の「技能」であるとか「能力」だと思っていた。僕はそういう考えをすること自体が、ボタンの掛け違いだと思っている。なぜならコミュニケーションとは、「姿勢」の問題だと考えているからだ。技能でもなく能力でもなく、単なる「姿勢」や「意思」の問題である。
 話し手にしゃべりたいことを気持ちよくしゃべってもらおうとか、相手はこれを話すことで何をいいたいのかとか、その時の話し手の気持ちはどんなものだっただろうとか――聞き上手とは、そのように、常に話し手の側に身を寄せるという「決死の意思」以外のなにものではないと僕は思っている(そして、今回それをまた確信した)。
 …それにしても、プロの臨床家は本当にすごいなと感心した。上に述べたことはものすごく簡潔にまとめただけであり、実際には細かいながら重要な指摘が他にもたくさんあった。瑣末な情報しかないにも関わらず、そこから本人の本質性を言い当てる。感動の瞬間である。今年度はもうやらないらしいが、来年度、もし機会があれば、みなさんにも受講してみることを強くお勧めするのである。

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『教育改革とジャーナリズム』

 今年、大石ゼミの、僕の班のテーマは、「教育改革とジャーナリズム」だった。
 6月から、これといった方向や指針も見えないまま、手探りでとにかく文献を読み進めた。当初、箸にも棒にも掛からぬ文献とそうでない文献の区別もつかないくらいだったが、手当たり次第に当たっていくうち、いくつかの名著に出会うことができた。教育社会学者の広田照幸氏の著書に出会えたことが、今回の研究における最大の成功だったと思っている。いかに良い本にいかに早く出会えるか(先行研究のマッピング)、が研究において何より大事なことだと痛感した次第である。
 ちなみに広田先生には、日大にて直接お話しを伺って忌憚なきアドバイスをもらった。彼は、苅谷剛彦先生と並んで信頼できる教育学者の一人である。広田先生の「愛国心のゆくえ」「教育言説の歴史社会学」「日本人のしつけは衰退したか」「教育不信と教育依存の時代」などの著作は、もし機会があれば、是非みなさんにも読んで頂きたいと思う。
 × × × × × × × × ×
 以下、「(公)教育改革とジャーナリズム」について簡単に説明しよう。
 教育改革が始まったのは1984年、中曽根内閣における「臨時教育審議会」からだ。以来、20年以上にわたって教育を良くしよう改善しようと「改革」が進められてきた。しかしながら、結果はといえば、全く良くなる気配は見えない(らしい)。2006年には、政府(安倍)は、「教育再生会議」と銘打った諮問会議を招集し、メディアも「公教育は瀕死にある」と、さらなる改革を訴え続けてきた。
 しかし、政府の改革には抜け落ちている議論があった。
 それは、「おカネ」であり、「教育予算」である。あまり指摘されないが、日本の教育予算は世界レベルからして最低水準である――家庭の教育支出は大きい、ひとクラス当たりの教員の数は少ない、教員の仕事はより煩雑になり、教材研究をする時間的ゆとりもない。
 まず何よりも改革すべきは、これら根っこの「教育環境の整備」だった。にも関わらず、その部分にはあまり触れらることはなかった。教育現場には「ゆとり教育」をはじめとして、総合的な学習時間や、道徳教育、奉仕、キャリア教育、あらゆるものが要求されてきた。それに見合うだけの条件整備(予算措置)を欠いたまま、あれもこれもという形で、「現場が頑張れ」と押し付けられてきたのである。(こういう「おカネをかけない」教育改革は、イギリスのサッチャリズムを模範としていた。いわゆる競争原理を入れて、自発的に教育を改善していくという新自由主義改革が基調にあったが、ここでは割愛する)
 現場への一律「押し付け」は今も続いている。
 たとえば、英語学習がその典型的な例である。次の新学習指導要領の改訂では、小学校段階での英語学習の導入が決まったが、果たして英語を教えることができる先生がどれほどいるのだろうか。都市部ならばいざ知らず、地方でそういう人材を確保することは容易なことではない。武道についても同じである。教育基本法の改正(伝統の涵養)を受けて、体育で武道を必修化することが決まったが、いまどき武道の心得のある先生など皆無に近い。まずもって進めるべきなのは、現場が教育効果を最大化できるような環境作りであり、しかるべき条件整備ではないか。
 
 新聞ジャーナリズムは、この点(教育環境の整備)については深く切り込んでこなかった。僕らは怒りに近いものを感じながら、それを論文の中で論じてきた。そしてどうしてそういう事態に陥ったのかについて既存の教育社会学を引用しながら、それをジャーナリズム論に引き付けて考察を行った。
 (論文とは構成が異なるが)、大きな流れに沿って結論を述べていきたい。
 これまで教育を語る際には、「教育学」的な用語が好まれて使用されてきた(というか今もそうだ)。つまり、教育は聖域であり、政治経済とは異なる自立した領域であるかのように扱われてきた。そして実際、このような認識が戦後から教育界を支配してきた。日教組は、学校を聖域として位置づけ、政治や経済と距離を置いて捉えたうえで、一貫して政治介入や競争原理の導入を拒絶してきた。
 だが80年代、中曽根内閣における臨教審以後は少しずつ「教育の自由化」が叫ばれはじめ、学校を開き、競争原理が導入されていくことになる。そして90年代を通して、政府主導による構造的な変革が水面下で進んでいく。
 
 その流れを一気に加速させたのが、2001年に誕生した小泉政権だった。「聖域なき構造改革」を掲げた小泉政権は、教育分野も例外ではないとして公教育にも歳出削減を求めて、新自由主義を推し進めた。大きなものとしては「構造改革特区」という制度の導入があるが、論文の中では具体的に2つ、①三位一体改革における「義務教育費国庫負担金の削減」と、②行政改革推進法による「公務員(教員)の純減」の例を挙げておいた。
 ここで、公教育の土台が根っ子から崩された。小泉政権は、競争原理を導入し、徹底的に「格差」をつける学校構造へと公教育の構造を変えた。新聞ジャーナリズムは、これらの改革が、教育の改善に資するのかどうかの議論を置き去りにし、行財政改革の文脈としてしか捕らえなかった(朝日新聞は特に構造改革推進に賛成だったがゆえに、教育論がすっぽり抜け落ちた)。
 僕らが批判したかったのは、まさにこの点である。
 つまり、「政治を見て教育を見ず、教育を見て政治を見ず」という状況である。教育と政治は不即不離であるにも関わらず、ジャーナリズムは、(あたかも)この二つを別個のものとして扱ってきた。教育は、政治経済とは独立したものとして「教育学的」に語られ、他方で、構造改革が叫ばれると、教育問題はあくまで「行財政改革」の文脈でしか語られない。教育学的アプローチだけでもダメで、政治経済アプローチだけでも不十分である。まず、政治経済的に「学校構造」を直視したうえで、教育論を位置づけていく。このような認識を徹底させる必要があるだろう。
 具体的にいえば、「ミクロ」に集中し過ぎて「マクロ」が見えなくなるジャーナリズムの姿が指摘できる。ジャーナリズムの記事が「学校の教室」から出発されることが多いが、それゆえ、そこに描かれるのは、先生の授業の創意工夫する姿であり、輝く子供の笑顔である。煎じ詰めれば、学校の創意工夫という「運用」の問題にすべてが収斂してしまい、マクロ構造的な改善点が見えなくなっている。教室の「現場」を報道することはもちろん大切であるが、その裏にあるマクロ的な構造への指摘を忘れてはなるまい。教育とは、すなわち、予算配分(政治経済)の問題であるのだから。
 (結局、教育改革で最も重要だったはずの「教育(現場)環境の整備」に目が行かなかったのも、上記のような要因が大きかったといえる。その他では、「教育基本法改正」の不毛な「空中戦」議論があったことも指摘しておかねばならない)。

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スウェーデンに行きます

 11月14日、交換留学の選考結果が出た。
 ハラハラドキドキしながら、国際センターの掲示版を覗きこむと、
 
 僕の名前の横には、「UPUSARA」という文字。
 あれ、と思った。第一志望のアメリカ・ウィスコンシン大学に決まってると思い込んでいた。でも、違った。スウェーデンのウプサラ大学に決まったのだった。
 直後こそ、なんで、という気持ちがあったが、次第に、「これはむしろご縁だな」と思い始めた。そうだ。そもそもこの交換留学を受けたのだって、軽いノリに近いものがあった。英語の点数はまったくもって足りていなかった。8月にカナダに三週間行って、死ぬほど英語の勉強をして、奇跡的に(これは文字通り奇跡的に)、トーフルの点数が規定に達したのだった。
 僕は人と違うことをしたくて日々うずうずしている人間だったので、スウェーデンに行けることは嬉しいと思っている。考えてみれば、アメリカに留学する日本人はたくさんいるけど、スウェーデンに行く人はあんまりいない。存在がレアである。
 新自由主義・ネオリベラリズムが嫌いな、社会民主主義者の僕にとって、大福祉国家スウェーデンで生活できるということは素晴らしい経験になる。もしかしたら大福祉国家に嫌気が差して、フリーライダーは決して許さないという断固決然・新自由主義者に様変わりするかもしれない。それはそれで、面白い人間的成熟だと思う。
 8月に出発の予定だ(たぶん)。それまでは英語をひとまず地道に勉強する。スウェーデン語を少しかじる。そして、スウェーデンの政治経済に関する文献を読んでいく。非常に愉快で楽しみだ。
 自由の国を満喫するために、これから頑張るのである。
 

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「でっちあげ」~福岡『殺人教師』事件の真相

 003年、福岡市のある小学校で起こった、全国で初めての、教師による生徒いじめ事件。
 教師は、親にアメリカ人の血が流れていることから、児童に対して「お前の血は穢れている」、「純粋な日本人の血が、外国人によって汚されている」などと差別的な発言を、執拗に吐きかけた。
 帰りの会の最中には、「10秒数える間に帰りの支度をしろ」と男児生徒に無理な要求をして、10秒でできなければ、彼のランドセルや学習道具をゴミ箱へ投げ捨たり、罰として虐待を加えた。
 あるときは、生徒の両耳をつかみ、身体を持ち上げ、ブンブン振り回した。生徒の耳は引きちぎれ、血が噴出し、化膿した。またあるときには、鼻をつまんで鼻血が出るまで振り回した。彼は、それぞれを、「ミッキーマウスの刑」と、「ピノキオの刑」と呼んで楽しんでいたという…。
    × × × × × × ×
 マスメディアは、「殺人教師」というレッテルをつけて「過剰」に報道した。
 朝日新聞の“スクープ”を皮切りに、西日本新聞、毎日新聞の報道が続いた。そして週刊文春にいたっては、「『死に方を教えたろうか』と教え子を恫喝した史上最悪の殺人教師」、というタイトルをつけて、教師の実名を公表し、センセーショナルな報道を垂れ流した。
 だが、真実は、この本のタイトルどおり、「でっちあげ」だった。
 
 教師は、差別などしていないし、体罰もしていなかった。事実無根の言いがかりだったにもかかわらず、マスメディアに「祭り上げ」られ、結果的に停職6ヶ月の「公開処刑」に処された…。
 犯人は、男児生徒の両親だった。
 母親は、嘘の事実を作り出し、迫真の演技で、息子がいじめられているとアピールすると、みんなころっと騙された。教師の言い分よりも、保護者の虚言を信じた校長や教頭。検証を怠り、報道を行ったマスメディア。涙に誘われるがままに、550人もの人数を集めた能無しの大弁護士団。
 みんな、彼を、悪魔だと思い込んで疑わなかった。
    × × × × × ×  
 
 「私も、彼を体罰教師と決め付けた記事を書いていたかもしれない、その差はほんの紙一重だ」。
  著者はあとがきでこう書き記していた。
 彼女は周辺取材、保護者や生徒へのヒアリングを通じて、彼が「殺人教師」であるか疑問をいだく。そして当事者の教師と長時間に渡って直接話をすることで、「彼は殺人教師ではない」との思いを強くした。これが、彼女の「紙一重の差」であった。
 記者というものの社会的責任の重さについて、「自覚的」であるかないか。著者と他の記者との間には、その差が現れたのだろう。朝日の“節操なスクープ”と、追い討ちをかけるような週刊文春と西日本新聞の“特ダネ”は、先にネタと取ってくるというような、ある種のゲーム感覚に酔い潰された結果ではないのか。あるいは、自分たちを“正義の存在”として思い込んで疑わなかった結果ではないのか(自分の正義を信じて疑わない人間は、どこか危なさをはらんでいるということを忘れてはいけない)
 あまりの杜撰な悲劇に、ページを繰りながら、心底怒りが沸いてきたし、情けなくて涙も出てきた。
 著者が、当時の朝日新聞、毎日新聞、西日本新聞、週刊文春の記者たち(本の中では、すべて実名が公表されている)にインタビューをしても、彼らはすでに事件のことには無関心で、週刊文春や朝日新聞の記者にいたってはほぼダンマリを決め込む始末だった。
 教育問題においては、マスメディアは学校に対して不信の目を向けがちになる。「子供=無垢」で、「学校=抑圧者」というイメージが、70年代以降ずっと続いてきたからだ。学校批判に議論が集中し、それの構造を作っている政策の批判は弱い。(せいぜいゆとり教育批判くらいだ)。そういう前提を持ってしまっているということをもっと自覚しなければならないと思う。メディアの側も市民の側も。
    × × × × ×
 
モンスターペアレンツが「人間」と思えない「純粋な邪悪性や狂気性」を持っているという点で、冤罪・報道被害という点で、悲しみと怒りが湧き上がって仕方がないという点で、そしてグイっと引き付ける筆力という点で、清水潔氏の「桶川ストーカー殺人」以来のとんでもないノンフィクションだった。
おすすめ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

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ホタルノヒカリから見る「まったり世界」

 ・ホタルノヒカリ(日テレのドラマ)が終わった。ほとんどドラマを見ない僕であるが、これは毎週見るのが楽しみなドラマだったので、ちょっと残念であった。心にポッカリ小さな穴が開いたのである。しくしくし。
 ・干物女という概念が、そもそも、素晴らしい。「干物女」というのは、「恋愛よりも家でゴロゴロすることを好む」「適当なジャージ姿でビールをグビグビ飲む」女性を意味するらしいが、これは別に不思議な人種でも何でもないのである。
 ・一般的に、男はジャージでダラダラしてビールをグビグビ飲んでいるものだ。どうして女性がそれをしていけないのかという話である。また、好きな男がいないのだから無理やり外に出て頑張るのもアレだから、むしろ家でゴロゴロしてたほうよろしい。
  
        ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ●
 さて、このドラマの面白さはどこにあったのか?
 それは、このドラマの恋愛観が、「どきどき」にではなく、「まったり」に価値を置いていたということ。そして最後には「まったり」が「どきどき」を超えてしまうことを、説得力を持って描き出している点にある。
 綾瀬はるか扮する「雨宮蛍」は、ひょんなことから藤木直人演じる「ぶちょお」(部長)と同棲を始めることになる。料理や洗濯をこなす、しっかり者のぶちょおは、干物女である雨宮(アホ宮)蛍を「女として終わっている」と宣告し、恋愛の対象として見ない。二人はお互いを男と女として意識することなく、それこそ「自分の素」(ナチュラリティー)をほぼ全面に押し出しながら生活を送ることになった。
 それほど「どきどき」することもないが、それだけ気をつかう必要もない。「素の自分」を気兼ねなくさらけ出せること、これが「まったり」の空気の内実である。
 その後、蛍は、会社の同僚の「まこと」くんを好きになり、まことくんとのメールや会話のやり取りに一喜一憂しながら「どきどき」を感じるようになる。そしてぶちょおに助けてもらい、紆余曲折を経ながら、二人の愛は結実することになる。
 だが、問題はその後だった。
 苦労の末、「どきどき」の恋愛を手に入れた雨宮蛍であったが、まことくんとの同棲が始まると、彼女にとっての「どきどき」は楽しさとしてではなく、重さとして感じられるようになる。一方のまことくんも、蛍が彼と一緒にいることで、「素の彼女」を出せていないことに何ともいえない苛立ちを感じ始める。
 そして、「蛍さんはぶちょおと一緒にいるほうが楽しいのではないか」という強迫観念に駆られたまことくんは、最終的に、蛍のことを捨ててしてしまう。
 大抵の恋愛では、「ドキドキ感」が時間の経過とともに減退していくにつれて、同時平行的に「愛着」のようなものが付帯されていく。この二人もお互いに深いところで愛着を持とうと「努力し」ていた。だが、その(ドキドキ状態における)「努力」という行為自体が、もっとも「まったり」の恋愛からほど遠いものであると、このドラマは示唆している。
 つまり恋愛とは、自分の素(ナチュラリティー)を気兼ねなく出せることであって、それは「努力」という概念とは無縁であるというのだ。ホタルノヒカリでは、このような「まったり」の恋愛観が隅々にまで徹底されていた。国中涼子演じる「素敵女子」の優華は、いつのまにか、武田真治扮する要さんと良い感じになっているが、彼女は蛍に諭すように言う。「ドキドキする恋愛もいいけど、一緒にいてホッとする恋愛も良いものよ」と。
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 「干物女って可愛いよね??」 こう言うと必ず次のように返答される。「それは綾瀬はるかが演じているからよ」と。僕もそれは否定しない。そう、綾瀬はるかは、確かに可愛いからだ。
 だが綾瀬はるかの可愛さを差し引いたとしても、「干物女」という概念にも固有の可愛さがないわけではないだろう。それはチョンマゲ固有の可愛さかもしれないし、ジャージと女性とビールいうギャップの可愛さかもしれない。あるいは、あの縁側の庭とジャージと新聞紙という関係性の可愛さかもしれないし、ぶちょおとの掛け合いから滲み出る可愛さからもしれない。だから、僕は「干物娘の多様な可愛さ」を「綾瀬はるか」の可愛さに一元的に収斂させることには断固反対を表明したい。「干物固有の可愛さを無視するな」と。
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 (最後に、このドラマの「まったり世界」が本当に「恋愛観」を志向しているのかどうかは実はよくわからない。「まったり世界」は、実のところ、「結婚観」を志向しているといえるからだ。このドラマは社会人の話だから、ヤングな「ドキドキ恋愛観」ではなくて、必然的に「まったり」にならざるをえないと言われるかもしれない)。 

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独り言

 どもども。お久しぶりのブログである。
 ついに悪夢のようなトーフルの試験が終わった。試験が終わったことには気分爽快ではあるが、結果は果たしてどうだろう。たぶん、規定の点数には足りていない。鬱である。もちろん選考には出すのであるが。
 うーむ、という感じだ。
 やはりコツコツ勉強しないといかんと痛感した。痛感したが、そもそも私はコツコツ勉強することが、大の苦手である。高校のころは受験に向け、1週間単位でスケジュールを組み、コツコツコツコツやっていたのであるが、大学生になってからというもの、どうも短期的な刹那的な生き方をする体質に変わってしまったようだ。ほんとうに困ったものだ。
 語学というものは、ある種、努力した分だけ、結果が反映されるといわれる。いわゆる人柄や話し易さ、コミュニケーション能力などと異なるのである。だから、「できなかった」ときに「自分の努力が足らなかった」という厳然とした事実を直視しないといけない。それはつらいものである。
 しかし、ここで英語の勉強をやめたならば、カナダに行った意味がまるでなくなるだけでなく、両親にも顔向けができなくなる。よって、今後はラジオ講座を聞きながら地道に勉強していく所存である。そして来年のオレどうするという重いテーマについては、交換留学の選考が終わってからゆっくり考えることにした。そう決心したのだ。
 ひさびさに愚痴と言い訳のブログになった。ふふんっ。

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箱根合宿からの帰還

 9月1日から4日まで、箱根でO石ゼミ合宿だった。
 出発前は、論文の中間発表のことで、ビクビク恐れおののいていたけど、なんとか無事にやり過ごすことができた。なおかつ、論文としての方向性も見えてきたということで、ほっと、ひと安心できた。そのあとは毎晩、飲んで話して遊んで、心おきなく楽しんだのである。
 部屋飲みでは、いつもの通り、恋愛のネタが繰り広げられていた。恋愛市場に参加していない(恋人がいなくて好きな人のいない人)僕は、提供できるネタがまるでないため、いつものように暫定的勝ち組の方々から温かいエールとアドバイスを受けることに専念していた。
 そこから得られた知見は次のとおりだ。
 
 僕が女の子に語られるときには大体、「顔は悪くないけど…何かダメ」というコメントを受けることがわかった。僕は自分がかっこいいなんて毛ほども思っていないが、もし仮に実際にかっこいいもの(+)として考えるとすれば、この「何かダメ」っていうのはつまり、人格あるいは性格に問題がある(-)ということを意味する。つまり、外見はいいけど、内面はダメだから、彼女ができないということだ。(まさに人格否定であり、これほど悲しいことはないのである。とほほ泣)
 そして、その内面の「何か」をさらに掘り下げてみると衝撃的な発言が飛び出してきた。
 「O君って、他人に壁を作っているよね」。
 うへぇー(!)
 これはほんとに衝撃的だった、ほんとに。みんなは信じないかもしれないが、僕は今まで20年間生きてきて、自分が「他人に対して壁を作っている」なんて毛ほども想起したことがなかったからだ。壁を感じるということは、つまり、一緒にいると何かしら息苦しさを感じることと同義である。
 これは大問題である。中学生以来、好印象で会話が弾むキャラクターを目指していた僕なのに、いつから他人に壁を感じさせるようなオトコになったのだろうか。
 もちろん、次のような反論も考えられる。
 彼らとは、一緒にいる時間が長い(仲が良い)。それだけに「何でも話そう」的な空気が、普通の関係性よりも濃密に醸成されていると考えられる。つまり、相手にとっては「けっこう長い時間一緒にいるのに(同じゼミなのに)、あんまり話してくれないじゃない」っていう不満である。
 だがこれは残念ながら不当な非難だと僕は思っている。個人的に内省すると、「話してくれないじゃん」ではなくて、ほんとに「話すネタがない」だけなのである笑。ぼくは本質的に相手の話を聞いているほうが好きな人間であって、自分の話で相手を楽しませるような人間ではないのである。…まあもちろん、この合宿を境に、今後は壁を感じさせないように努力していきたいと思っているが。
 みなさんどうぞよろしく。
 (あと、この合宿で自分は話すのが遅いという事実に気がついた。今後はできるだけ早口で話す努力を進めていきたいと思う。よろしくよろしく)

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カナダから帰ってきました

 ーも、19日の夜にカナダから日本に帰ってきてました。そして20日から3泊4日で某S谷ゼミの合宿がありました。正確に言うと、僕は体調を考慮して(そして文献を読んでいなかったので)、21日からの参加にしました。そして今は、O石ゼミの合宿に向けて論文を進めながら、トフルの試験対策に英語を勉強しています。けっこうパニくっています、そんな感じのわたくしです。
 ●カナダでは、もう勉強一色の毎日、というわけでもありませんでした。最初の一週間は、7時に起きて11時まで英語の勉強、午後からは語学学校へ通い、19時からパブへ行ってビールを飲みながらハルキムラカミの『ノルウェーの森』の英語版をひたすら読むという生活を送っていたのですが、なにぶん、ほとんど誰とも関わらない生活をしていたため、途中から、「これで良いのだろうか」という疑問が頭に浮かんできました。
 「人と会話しないなら、別にカナダ来る必要はないな」と思い直して、第二週目からは、日本人以外の人種の人達と薄く浅く関わり始めました。ヤンキースと(トロント)ブルージェイズの試合を見に行ったり、ケベック州に観光に行ったり、ナイトクラブやディスコに行ったりしていました。
 ●ナイトクラブは、なかなか興味深い場所でした。夜の12時を過ぎたあたりからやたら混んできて、満員電車のなかで踊っているような状況です。ラテン系の人種の人達は、もう、テンションとノリに合わせて抱きつき、キスして騒いでいました。これにはさすがについていけず、ソファーで無力感と敗北感に打ちひしがれました。「こいつらは人間ではなく、獣なのだ」。ステージで踊っている人達を、二階から見下ろしながら僕はそう自分に言い聞かせていました。(たぶん、酒を許容量以上飲んでから参加すれば良かったんだと思いますが)。
 ●現地の新聞は、なかなか学ぶところが多かったです。トロントの地元紙は、「TORONTO STAR」というクールなネーミングの新聞です。トロントでは、町のいたるところに自販機が置いてあるのでそこで買うか、駅の売店で買うというのが普通みたいです。しかしながらフリーペーパーが日本以上に普及していて、電車などでは7割近くの人がフリーペーパーを読んでいるようでした。
 海外の新聞は概して、ニュースを分野ごとに分けているので見やすいです。トロントスターにしろナショナル(カナダの全国紙)にしろ、ニューヨークタイムズにしろ、そのほとんどが国内面、国際面、ビジネス面、エンターテイメント面と分かれていて見やすい。国際面は、日本の新聞に比べると分量が倍くらいあったと思います。日本も参考にするべきでしょう。
 ●トロントは、世界一マルチカルチュラルなシティーとして有名です。中心地は驚くほどコンパクトで、ほとんど歩いて回れます。そして各国ごとに街が分かれていて、チャイナタウンに入るともう中国一色であったり、リトルイタリーに入ると、イタリア料理の店がずらっと並んでいたりと、観光客にとっては歩いて回るのに飽きません。
 僕が行ったなかで一番面白かったのは、やはりボーイズタウンと呼ばれるゲイのストリート。店の大半がゲイの集まる店で、看板がほとんど男の裸。僕が入った店は「WOODY」という名前で(笑)、広々とした店内のテレビには、男性が二人、お互いに身体を洗いあっている映像が流れていました。店には日本人のゲイの人が働いていたので、いろいろと話を聞きました。
 彼曰く、海外のいいところは、多様性を受け入れて生きやすいところだという。日本社会には、目には見えない細かいルールが張り巡らされていて、人の目を気にしなければならない。割とマルチカルチュラルな東京は、人が多すぎてゴミゴミしているからストレスが溜まるのだと。
 これは僕もまったく賛成の意見。東京は人が多すぎる。渋谷になぜあんなに人がいるのか。あの状況は海外の基準からすればクオリティーオブライフを無視していますし、あの人口の過密は、東京に来ないと仕事がないという状況を作ってしまった、政府の政策ミスが原因でしょう。
 また、人の目を気にしすぎる社会は、儒教などが歴史的に日本人のメンタリティーに浸透してしまっているため、これを改善するには相当の長い時間が掛かると思われます。韓国人に「韓国でゲイはどう思われているか」と聞いたところ、「もしゲイだとバレたら自殺するしかない」と言っていました。日本は、韓国(や中国)ほどではないにしろ、まだまだマルチカルチュラルにはほど遠いのではないかと思います。
 ●英語は三週間では、あまり身につきませんね。最低二ヶ月くらいしないと成果が目に見える形で出てこないのではないかと思いました。まあ今回のカナダ滞在は異文化体験ということで良しとします。また九月に試験があるので、それを目指してめげずに頑張りたいと思います。ではでは。

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カナダに行ってきますぴょん

 日(29日)から、三週間ほどカナダのトロントに行って参ります。
 その目的は、ずばり英語の上達であります☆。
 このブログでは言っていなかったかもしれないけれど、僕は次の交換留学の選考に出そうと考えています。そのためには「TOEFL」というとんでもなく高額で七めんどくさい、何の意味もない英語の試験を突破しなければならないのです。三週間という短い日程ですが、もう死ぬ気で勉強してきたいと思っています。絶対に点数を上げてやるぞと、ここに決意を表明します。はい頑張ります☆
 僕の計画としては、朝9時から17時まで非英語圏の留学生が集まる生ぬるい授業を集中してこなすと。そして、夜はクラブに行って踊りまくる。…いや違う。地元の人に話し掛けて、ナチュラル英語のスピードに慣れると。まあ日本人の可愛い子もたくさんいると思うのですが、そこは高まる気持ちを我慢して、クールに携帯の連絡先だけ交換したいと思います。そして日本でゆっくり日本語で意見交換をしたいと思います。まさに完璧なプラン(^^)。
 というわけで、三週間ほど、携帯からのアクセスはできなくなります。ご了承ください。御用のある方は、パソコンのアドレスから連絡してくださいね。では、よろしくよろしく!!

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希望は戦争か、について

 田先生が格差社会について文章を書いている。
 ☆格差社会って何だろう
 先生は、格差社会の根本的な問題は、「お金によってすべての価値が決まる」という拝金主義的なイデオロギーが社会の隅々にまで行き渡ってしまったことであると指摘する。「お金があれば問題は何でも解決する」というお金の全能感が人々の頭に染み付いてしまったせいで、お金以外の社会的価値の存在が見えなくなり、人々もお金以外の価値によって「人」を見ることが少なくなった、と。
 人々が生きづらくなったのは、(ひとつには)お金という一元的な尺度によって人間的社会的な価値が規定されるようになったからである。たとえば、(特に下層の人々は)お金が無ければ、それ以外の良い部分などないのと同じで、生きるうえでの自己の存在価値の承認が受けられず、自分が何のために生きているのか意義を見出せなくなくなったのだ。
 そのうえで、内田先生は次のように述べる。
 

私自身は人間の社会的価値を考量するときに、その人の年収を基準にとる習慣がない。どれくらい器量が大きいか、どれくらい胆力があるか、どれくらい気づかいが細やかか、どれくらい想像力が豊かか、どれくらい批評性があるか、どれくらい響きのよい声で話すか、どれくらい身体の動きがなめらかか・・・そういった無数の基準にもとづいて、私は人間を「格づけ」している。 私がご友誼をたまわっている知友の中には資産数億の人から年収数十万の人までいるが、私が彼らの人間的価値を評価するときに、年収を勘定に入れたことは一度もない。私にとって重要なのは、私が彼らから「何を学ぶことができるか」だけだからである。

 

私は長い間同年齢の人々の平均年収のはるか下、底辺近い「貧困」のうちにあった。だが、私はいつでもたいへん陽気に過ごしていた。ご飯を食べる金がないときも、家賃を払う金がないときも、私はつねにお気楽な人間であり、にこにこ笑って本を読んだり、音楽を聴いたり、麻雀をしたりしていた。たいていそのうち誰かが心配して、私のために手近なバイトを探して来てくれたので、間一髪のところを何度もしのぐことができたのである。私がつねに変わらず陽気でいられたのは、年収なんか人間の価値とはぜんぜん関係ないということを深く、魂の底から、「確信」していたからである

 年収と人間の価値の関係なさを「魂の底」から「確信」して声高に叫ぶ人はあまりいない。僕自身もそのような考えを突き通そうと「魂の底」から思っている次第である。
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 しかしながら最近、少し不安になる。いまの日本では、このような意見表明は現実変革には何の有効性を持たない、それどころか現実を捉えていない空虚なものではないかと。
 というのは、先に述べた『お金がなくても「他者の尊敬」があれば陽気に生きていける』という見解は、その前提として『「他者の尊敬」が得られるほどに、知的文化水準が高くてコミュニケーション能力がある主体』を想定しているからだ。たしかに『お金は無いけど「社会的承認」が得られるような人間』はおそらく問題はない。だが実際問題としてそのような人間は稀有である。お金がなければ文化水準が低くならざるをえないからだ。そうだから、もっとも危険なのは、生活苦であるだけでなく、精神苦でもある、『お金も無い、「社会的承認」も受けることができない人間』である。
 たとえば、今年「論座」への投稿で話題になっている、「赤木論文」。
 ☆「丸山眞男」をひっぱたきたい 31歳フリーター。希望は、戦争。
 

私たちだって右肩上がりの時代ならば「今はフリーターでも、いつか正社員になって妻や子どもを養う」という夢ぐらいは持てたのかもしれない。だが、給料が増えず、平和なままの流動性なき今の日本では、我々はいつまでたっても貧困から抜け出すことはできない。我々が低賃金労働者として社会に放り出されてから、もう10年以上たった。それなのに社会は我々に何も救いの手を差し出さないどころか、GDPを押し下げるだの、やる気がないだのと、罵倒を続けている。平和が続けばこのような不平等が一生続くのだ。そうした閉塞状態を打破し、流動性を生み出してくれるかもしれない何か――。その可能性のひとつが、戦争である

 生きるのにギリギリの収入しか貰えず、社会的な地位や承認も得られないフリーター。――既に失うものも守るべきものも何もない。そんな人間の尊厳を踏みにじられたような、生きていても意味のない生活が続くのならば、いっそのこと戦争が起きてしまったほうがいいという刺激的な意見表明である。
 そう、戦争が起きれば、誰もが平等に徴兵される。そこでは誰もが平等に犠牲者となりえる。そして戦争が終わったあとは、社会の固定的な階層秩序がガチャガチャポンされ、いままでの席を占めていた安定労働者の枠がフリーターに明け渡される可能性が高まる。戦争のカタストロフィーはたしかに凄惨であり非人間的である。だがそれは万人に平等の悲劇であり、社会の閉鎖性を打破するには仕方のないことだと彼はいう。
……これを読んだときはさすがに衝撃を受けた。戦争が希望っていうことに。生きていても死んでも別に大差はないと言い切ることに。
 もはや日本の格差など世界の格差に比べたらたいしたことない、などと呑気なことを言っている場合ではないかもしれない。下層の人々は自分が生きるか死ぬかで生活しているという。そして社会的尊敬も得られない中では生きている意味がない、だから、自分たちだけが苦渋を舐めるというのであれば、いっそのことみんな平等に犠牲になる戦争が起こったほうがいいという。
 このままでは、自発的意思のもとに戦争を要求する人たちがどっと出てくるかもしれない。この小論を読むかぎり、それが切実なまでに読み取れる。ではどうすればいいのか。富の再配分を強化すればいいのか。でもそれでは根本的な解決にならない。労働市場をより流動化すればいいのか。いやそれも違うだろ。使えない既得権益にしがみ付いている輩を排除すればいいのか。それはそうだ。でもどうやって実現するんだ? 戦争か?

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ジャーナリズムの監視役って

 Y新聞社長に対する質疑応答のなかで、刺激的な質問があった。
 「ジャーナリズムの仕事は、民意を反映したり、政府を監視して評価したりすることだと思いますが、じゃあ、ジャーナリズムがきちんとその仕事を果たしているかいないかの評価はいったい誰がするのですか?」。
 社長は、迷わずにこう答えた。
 「それは、読者です」、と。
 
 おいおいおい、と叫びたくなるのは僕だけじゃないと思う。だって、圧倒的な大多数の人々は、映画券とか野球のチケットがもらえるか否かによって新聞を選んでいるんだから!!。新聞の記事内容やスクープ数を考慮して、この新聞が良いと思って取っている人はほとんどいない(元毎日新聞の幹部の河内氏は、発行部数が多い新聞ほど、販売職員・拡張職員が多いと指摘している)。
 そもそも新聞は再販制度(価格の固定)に守られているから、市場の原理に晒されていないし、記者クラブのもとで、新たなプレイヤーが新規参入できない状態にある(新たなプレイヤーがいるかいないかは別として)。加えて、新聞社がテレビ局を兼営していることで、新聞とテレビの相互批判がほとんどできていない。
 新聞がきちんと仕事できているか否かは、読者ではなく、互いのメディアの相互批判によって、あるいは市民団体やNPO団体の多様な監視によって評価されるべきだ。
 いまの日本ではマスメディア(新聞・テレビ)が報じなければ、そのニュースはないも同じことである(ネットによってその状況は着実にそして確実に変わってきているが…)。だから自分に都合の悪い情報を流さなければ、市民はその事実を認知できないし、変革を起こそうという運動に発展しない。
 新聞・テレビは最後の談合組織であるといわれるのはそれゆえだ。
 Y新聞社長は、「読者」が懸命な目を持って新聞を判断していると思っているかもしれないが、そんなわけがない。「読者」が本当に賢明であれば、まず真っ先にマスメディアの癒着構造に対して大きな声を上げているはずだからだ。「ふざけんな、談合組織が!!」と。
 マスメディアのレベルは、結局、国民レベルにしかないと鳥越俊太郎氏はいう。だがそれは日本があまりにも少数のメディアが多大な影響力を持っていることの裏返しに過ぎない。だったら一つ媒体の影響力を弱めながらより多元的なメディアを作っていくしかないではないか、と僕は考えている(…テレビは特に)。
  

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メディアとジャーナリズムの違い

 ちの大学に某Y新聞の社長が講演会にやってきた。お題目は「メディアとジャーナリズムの違い」。…あまり乗り気ではなかったが、いちお研究所の先輩だったので、聞きに行った。
 テーマの「メディアとジャーナリズム」の違いについては、いたって普通だった。
 メディアとはあくまで「媒介」であり、「伝達手段」であり、「伝送路」である。それは別に新聞でもテレビでもネットでも変わらない。情報を伝えるための「乗り物」に過ぎないからだ(もちろん、乗り物によって伝え方や伝わり方はまったく異なってしまうけれど)。
 一方、ジャーナリズムとは、何を伝えるべきか伝えないべきかを峻別する機能・機構である。社会で起こる出来事すべてを伝えることができない。しかも「伝送路」(新聞・テレビ)から伝えられる情報は限られている。だから公共性のある重要事項を選別・取材・編集して、お茶の間に届けるのである。
 つまり、メディアは乗り物であり、ジャーナリズムはその中身と質を担保していて、「公共性を担っているのだと。(→だからうちらは偉いんだぞと笑)。
 彼は、このような原則論を述べたうえで、大学の研究機関について言及した。
 「伝送路についての多様なメディア研究は数多くなされているが、ジャーナリズムの中身と質についての研究が少ないように思える。何を報じるべきか報じないべきかの中身の研究を増やすべきだ」と。
 ふむふむ。これはたしかにその通りであろう。
 うちの大学もメディアの多様化に伴い、新聞研究所から、メディアコミュニケーション研究所へと変わった。研究の軸は、メディアの産業論とか、クリエイティブ産業がどうのとかに移っている。事実として、相対的にジャーナリズムの中身や質、ニュースの質に対する関心が減っている。
 だが、メディアもっともっと批判的に見るための徹底した言説研究も同時並行的に行うべきだろう。さもないとジャーナリズム機能がめちゃめちゃになってしまう…そんな気がする。(続く)。
 

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