富山バスツアー帰還①

 山バスツアーから無事に帰還しました。ほんと面白かった。廃校に泊まったり、かやぶき屋根を見たり、いろいろと回りました。一番良かったのは、チョーが付くほどの変人奇人と一緒だったことかな。彼らに比べれば、「俺まだまだ普通の人間だ」って思ったこと。もっと語るに足る人生を生きようって気になり、またまたやる気が溢れ出てきたのである。
 細かい感想を述べる前に、今回のツアーの主要な人物たちを紹介しよう。
 発起人であり、NPOのコトバノアトリエを運営している山本繁氏。そして彼とSFCの同期であり、現在は湘南で養豚場を運営している宮治勇輔氏。そして、八丈島の活性化のためにそこを舞台に、「今日という日が最後なら」という映画を撮った柳明菜氏。彼女は、自分で映画会社「Willows」を立ち上げ、プロジェクトを作っていると。
 前者の二人については、去年の海士ワゴンで知り合った本村拓人氏が作成している「社会起業メルマガ」に詳しく掲載されているので、興味のある人は是非とも登録して、読んでみてほしい。僕の最近のお気に入りでもある。ちなみに、このツアーに拓人さんも参加していて、当日、会ってビックリしたのであるが。
 山本繁氏の記事。http://tetol.net/mm/vol18/
 宮治勇輔氏の記事。http://tetol.net/mm/vol7/
 
 あと海士ワゴンの仕掛け人である、インド人こと尾野さんもこのツアーに参加していた。彼の記事もあるので、どうぞご参考までに(このメルマガ便利だな)⇒http://tetol.net/mm/vol13/
 その他にも、「地元香川県で起業を考えているので僕の背中をプッシュしてください」と言って参加した超個性的なタタラさん。手がたりという障害者によるマッサージ事業を営むMr菊池さん。他には、若者を農家へ送り込むNPOをされている方、新聞社の方、映画監督の方、海外協力隊でシリアに住んでいて、今は労働組合の連合で活躍されている方。出版でジャーニーズネタに詳しい方。ミニコミ誌を作っている方。
 みんな面白すぎてビビター。まじでビビターー。俺も頑張ろうっと♪

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富山に行ってきます

 どもども、8日の夜から3泊4日で富山県に行ってまいります。「農業と地域の活性化」について考えること目的とした、「社会企業家といく、冬の農村体験バスツアー」であります。
 主催は、ニート支援などを行っている素敵なNPO団体・コトバアトリエの山本繁さん。(先日、コトバノアトリエの小説アカデミーが支援していた、ニートで障害者の白井勝美さんが「絶望男」という本を出版しました。面白いです。是非ともチェックしてみてください)。
 山本さんは島根県の隠岐島海士町がやっている都市と地方を繋ぐ「AMAワゴン」にヒントを得て、今回、同じように都市部の人間を連れていってしまおうと思いついたらしい。富山バスツアーの参加者は36人で、しかも「社会の変革が趣味」というような、個性溢れる変わり者(?)ばかり。ちなみにそんなツアーのチーム名は、食糧自給率100%を目指して、「チーム100%」っていう(笑)。
 あちらでは、農村を見たり、現地の人と交流したり、シンポジウムをしたり、するらしい。せっかく格安で用意して頂いた貴重な機会なので、たくさんの人々と語らい、農と地方を学び、酒を飲み、はしゃいで、問題意識を鋭敏にしてきたいと思います。帰ってきたら、ここにアップします。ではまた!!

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ギョウザとメディア

 ョウザ問題とそれを取り巻くメディア報道について、苦言を述べたい。
 
 ギョウザ問題とは、周知のとおり、JTフーズが取り扱っていた「一口餃子」を食べた人が、バッタバッタと食中毒を催し、社会問題となっている件である。当初は、JTフーズと契約していた中国の「天洋食品」が、その原材料から加工の過程において、「殺虫剤」かそれに準ずる「農薬」を使っていた可能性があるとして、メディアは「中国問題」というフレームで報道した。そののち、ギョウザ問題は不可解な動きを見せる。ギョウザ袋に穴が開いていたり袋の表面にどっぺりと農薬が付着していたり、誰かが故意に何かを混入した可能性があるというのだ。まだ詳しいことはわかっていないが、餃子問題は、製造過程ミスの問題から、「故意」に混入されたという「事件性」を帯び始めている。
 そもそもの前提から言おう。
 これは「中国問題」として考えるべきではない。これまでの情報を総合すれば、JTフーズの管理問題と考えるのが最も妥当な推察である。たとえ、中国の「天洋食品」の農薬使用や製造工程に問題があったとしても、それを管理していなかった親元のJTフーズの管理ミスが第一に指摘されてしかるべきだからである。メディアは「日本VS中国」というフレームで報道をできるだけ控えるべきだ。話がややこしくなるだけでなく、無用なナショナリズムを煽るだけである(麻生太郎は言葉の重みを理解できないという意味で、政治家として失格であると僕は声高に訴えたい)。
 もしメディアが責任問題を指摘するとしたら、そもそも何人の管理者が、JTフーズから(あるいは双日食品から)中国の工場へ出向していたのかという点についてである。日本の冷凍食品の大半が中国で生産されているとしても、まともな食品会社は、すべての作業について、自社の社員を派遣して関与・管理しているはずだ。だから、まず指摘するべきは、親会社のどれほどの人間が関与しているかについての、アウトソーシングの『丸投げ具合』である。この根本がなっていなければ、それは誰が何いおうと、親元の管理の責任である。中国問題として扱うではなく、日本問題として扱うではなく、まず企業としてのJTの管理問題を軸にして報道を行うべきである(他の餃子を扱う食品会社に対して迷惑極まりない話である)。
 そして、もう1つの問題は、「被害者」に寄り添うメディア特性である。こうした事件が起こると、メディアはいつも「被害者」に寄り添う報道を行ってしまう。今回のケースでは、千葉市の保健所が槍玉に挙げられた。食中毒を催した人から食品の検査を求められていた千葉市の保健所は、「被害者からの声に耳を傾けず」、それを受理しなかった、けしからん、と他罰的な報道である。
 だが、ちょっとまってくれ。保健所の言い分も聞かず一方的に、「受理しなかった保健所が悪い」と断罪するのはいかがなものか。メディアの方々は、保健所にどれほどの検査依頼が舞い込んでくるのか把握しているのか。消費者至上主義の日本では、膨大な数の検査以来が来ているだろうことは容易に推察される。「食べたらお仲が痛くなった」「味が変だ」とかちょっとしたことで。だから、そこに何かしらの「事件性」が無い限り、保健所の側が動けないのも十分考えられるし、妥当性すらあると僕は思う(もちろん、今回の件では事件になってしまったのだから、保健所に非はある事はあるだろうが)。
 「より安く売れ」
 このような消費者圧力が、企業をして、中国へ向かわしめている。例えば、消費者の味方のイオンを始めとした大手スーパーは、この原材料高騰のなかでも、「値上げは許さない」といって憚らないが、では、あなたたちは一体、何を努力しているというのだろうか。値下げの努力をしてきたのは、主に食品会社である。中国へ工場を移し、加工技術を刷新し、絶え間ぬ値下げを可能にしてきたのはメーカー企業である(そのなかで突出して(安全性を無視して)安く売ろうとするのが商社ではある)。大手スーパーは、極端にいえば、単に商品を右から左に流しているだけで、努力していることといえば、たかだか、人件費の値下げくらいである。
 食の安全を語るならば、産業構造の問題、値上げ問題、消費者意識の問題を避けて通れない。これからのメディアの「食」を巡る特集に期待したい(ほんとは期待していないけど)。

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ネットと恋愛は人間を変える

 うしてインターネット上に文章を書いて発信することに、どのような意味があるのだろうか。そんなことをふと考えているとき、タツル先生のこんな一文に出会った。「インターネットは、人間関係のあり方を変えているというよりは、人間のあり方そのものを変えているのである」(大人は愉しい)。
 「人間関係だけでなく人間そのものを変えている」。なんとも含蓄の深々とした示唆である。このたったワンフレーズを紡ぎだすために、どれだけの知的営為が費やされたのであろうか、ちょっと考えただけでもクラクラしてしまう私である。
 ブログを書くのは、他人のためであり、自分のためである。自分が書いたものがどこかの誰かに共感されるというのは、相手にとってもハッピーであり、自分にとってもハッピーである。それは、別にどれだけ内容が高度に示唆的なものであろうと、どれだけ些細で自己満足的なものであろうと、関係ない(mixiを見よ)。重要なのは「受け手」である。人をして、ネット発信へと向かわしめるのは、「どんな思いであれ、それを受信し共感してくれる人がどこかにいる、という確信が得られたとき」なのである。
 ふつうの人間の日常や個人的な妄想などは、ほとんどの場合、口に出されぬままに終わってしまう。だが、インターネットの登場によって、個人的な妄想を発信できるようになる。そして、それにより、その個人の日常が、「発信」を前提として営まれることになる。つまり、日常の過ごし方に変化が生じるのである。
 このことを、タツル先生は、「恋愛の効用と似ている」、と書いている。
 「恋人ができると人は急に雄弁になる。それは自分の語るどんなつまらない言葉にも深く心を込めてうなずいてくれる聞き手を得たからである。そうすると、その日に起きた、『あらためて人に聞かせるほどのこともないけれど自分の心には残った出来事』をきちんと記憶しておこうという気分になる。…恋をすると一日が濃密になるような気がするのは、別に時間の方がどうかしたわけではなく、『聞いてくれる人がいる』がゆえに、一日の出来事を記憶し、それについての個人的印象を言語化する『張りが出る』ことの効果なのである」。
 
 「インターネットで発信することの余得は、そうでもしなければ誰も聞いてくれないはずのとりとめのない『思い』を受信し、耳を傾けてくれる誰かがいるという期待のせいで、何だか生きている『張りが出て』くるということにある」。 
 
 「ネット発信」と「恋愛」の効用の1つに、「人間を変える」ことがある。「聞き手」が存在するという「確信」によって、漠然として営んでいた「日常」に、生きている「張りが出て」くる。その結果、人間が変わるのである。なるほど。こうして曖昧模糊とした私の茫漠たる疑問は雲散霧消した。合点ガテン。
 × × × × ×
 ところがどっこい、やはり疑問は浮かんでくるものだ。
 「ネット発信」と「恋愛」の相関関係についてである。たとえば、次のような仮説の妥当性はどれほどあるだろうか、と。『ネット発信をしていると、恋愛をする動機付けは減退し、逆に、恋人がいれば、ネット発信する動機付けが低下する』――これはいささか馬鹿げた問いのように見えるが、実は、「コミュニケーションの根本」にも関わる重大な問題を含んでいる。
 
 簡単に結論だけ述べよう。僕の経験上、やはり『他者の承認』に飢えている人ほど、ネット発信をしたがるきらいはあると思う。自分のなかの「そこそこ」の出来事は、ネット上か恋人しか聞いてくれないからだ。そして、恋人がいる人は、「そこそこ」の出来事は、ネット上でアップする必然性がないため、ネット発信の頻度は少ない。だから、ここが怖いことであるが、「そこそこ」の出来事についてネット発信を頻繁にしている人は、恋愛をしていない人だとわかってしまうのである(わぉ!!)。
 そして、さらに恐ろしいことが発覚する。その「恋人ナシ+ネット発信」の人間は、上の仮説(=ネット発信している人は恋愛する動機付けが減退する)にもあるように、「まあ、別に恋人いなくても、ネット上で吐き出せるから、別に恋愛しなくてもいいや」という気持ちになってしまう。つまり、恋愛に対する無関心が促進され、恋愛できないスパイラルがさらに加速されることになるのである(わぉ!!)。
 やはり、インターネットは怖いのである。なんてね。

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『あなたへの手紙~娘の幸福へのカルテ』(なだいなだ)

 「ともかく、ぼくがいいたいのは、この世の中には、ひとのしあわせのことを考えてくれると称して、忠告を押し売りする人が多すぎはしないかということ。忠告できるのは、その人をほんとに愛しているといえるものだけだと、ぼくは思う。自分のすべてを投げ出してもいい、喜びも悲しみもわかちあおうと思っている人間だけが、相手の生き方に干渉する権利があると思うんだ」。
 なるほど、自分が持っている物差しを、他の人にも適用しようとすることはよくある。僕なんてまさにそのタイプの押し付け人間である。ただ、自分の価値観を押し付けることは必ずしも悪いことではないと思っている。そもそも僕は価値観を押し付けるのが好きであり、かつ価値観を押し付けられるのが好きな人間である。価値観を押し付けようとしてくる人間に対しては、押し付けるだけの価値観がこの人にはあるんだ、と僕はあえて解釈することにしている。
 もっとも、これは僕の個人的な趣向である。たぶん普通の人は自分の生き方に干渉されるのが嫌いだ。ちょっと否定するだけで、つんとしてしまう。大きく忠告すると、もう『KY扱い』されてしまう。そうしてスカスカの、表面を取り繕っただけの人間関係だけが残ってしまう。おそらく、なだいなだのいう時代と今の現代は、別の世界である。あの時代は、村上春樹に言わせれば、「誰もが本を貸したがる時代」だった。言いか悪いか別として、そういう「価値観の押し付け合い」の時代だった。いまは逆に、誰も何も言わなくなった。「この人、このままで大丈夫かな」と、余計なお世話とわかりつつも、心配しちゃうような人(俺です)が山ほどいるなかで、「その生き方はどうも視野が狭すぎるのでは…」とはっきりと言う人が、絶滅危惧種並に激減してしまったのである。まあガツンというといっても、「自分のすべてを投げ出してでも、喜びも悲しみもわかちあおう」という「愛の覚悟」があるわけでもないから、「さあいうぞ」という気持ちにならないだけなのであるが。
 「恋ってのは、たいがいどちらかに中心がかたよっているもんだよ。つまり、多かれ少なかれ、どちらかが片思い的でない恋はないってことさ。そして、ぼくの場合、たいがい、ぼくの方に、どういうわけかかたよっているんだな。そういうわけで、恋というものは、つねにしあわせなものじゃなかった。…ぼくは、恋の、その心をかむふたしかさこそが、今の今、ぼくの生きつつある瞬間を意識させるものだと知った。だから、しあわせを求めて恋をするのではなく、しあわせな恋はないと知りつつ、恋はすべきだと思ったんだ。…しあわせなど考えず、ただひたすらに恋をする。恋にはそれだけの価値がある。僕は、そう信じたいんだよ。わかるかなあ。」
 「恋ってのは、たいがいどちらかに中心がかたよっているもんだよ」。この点については僕も考えを同じくする。どちらかがちょっと盛り上がり過ぎていて、どちらかがちょっと冷めている、そんなふたしかなものが恋であり、ふたしかだからこそ、恋する意味がある。逆にいえば、ふたしかでなければ、恋する意味などないのである。これはつまりどういうことかというと、安定した恋をしている人はすべからく別れるがよろしいということである(わぉ!)。振り子の静止した恋など恋ではない。今すぐにでも電話をして「あなたとはもう終わりよ」と最後通牒を高らかと突きつけるがよろしい。きっと楽しいぞ、なんて。
 …こんな馬鹿なことを書いているとまた誰かに怒られそうであるが、必ずしもふざけているだけではない。たとえば、同じ精神科医の(故)河合隼男も、似たようなことを言っていたりする。
 「ぼくもいま、ある原稿で夫婦のことを書いているのですが、愛し合っているふたりが結婚したら幸福になるという、そんなばかな話はない。そんなことを思って結婚するから憂鬱になるんですね。なんのために結婚するのかといったら、「苦しむ」ために、「井戸掘り」をするためなんだ、というのが僕の結論なのです」
 精神科医の面々は「苦しみ」が好きなようである。キーワードは「しあわせ」ではなく、「くるしみ」である。「幸福について語られることは、すぐ聞きあきる。しかし不幸については、語って語りあきるものはいないし、他人の不幸の話を聞いて聞きあきるものはいない」とも、なだいなだは言っている。
 
 ここまで考えてみて、僕は、「そこそこ」生きるよりも、たくさん「苦しんで」生きたほうがいいような気持ちになってきた。しあわせよりも苦しみの方が、「語るに足る」人生になりそうな予感がする。しかも最近はまったく不平不満のない完璧過ぎる生活を送っていたので、そろそろ苦しみたいなと思っていたところなのである。よし、今日から苦しんでいきることに決めた。ものすごく中心がかたむいている恋をして、井戸掘りもしよう。なんだか人生は楽しそうである。

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おぐしの読書棚2008

 去年に引き続き、おぐしの読書棚。わたしは基本的に感動しやすい人間であり、かつ感動したものを他人にも共感・共有してもらいたいと強く思う人間である。ただ、周知のとおり(?)、人に何かを勧めるという行為は「命掛けの跳躍」である。そもそも勧めても読んでもらえないと残念だし、読んでもらったとしても、「あれ、あんまり面白くなかったよ」というコメントをもらうと絶望的な気持ちになる。まあ、他人を自分の都合の良いように変えられると思うこと自体が間違っているのだろうけど。おそらく、どこかの国みたいに。だから、わたしは、ここのひっそりとした個人ブログに自分の読んだ本に関する情報を紹介しちゃうのである。どこかの誰かにその感動が共有されるであろうことを祈りながら。
 1月
 マルクス・エンゲルス『ドイツイデオロギー』☆☆☆☆
 観念的なヘーゲル哲学を批判して出てきたカールマルクスとエンゲルス。彼らは語る。「意識が生活を規定するのではなく、生活が意識を規定する」。そして「生活を規定するのは、生産諸関係及び経済構造である」。つまり、表層に囚われず、冷徹に経済下部構造を眺める必要を説くのである。
 これを読んであることを思い出した。教育問題だ。道徳やしつけを語るとやたらに個別的体験や理想論に陥ってしまう教育言説の状況は、実は、マルクスが、形而上学に過ぎるヘーゲル哲学を批判していた状況に似ている。教育を良くしたければ、(政治)経済の予算配分と人的分配の土台を眺める必要がある。もしマルクスが生きていたら、きっと、そういったに違いない。名著である。
 ジェームスマン『米中奔流』☆☆☆☆
 
 米中関係が歴史的にどうやって動いてきたのかをドキュメントとして克明に記述している。すべては、ニクソン・キッシンジャーの忍者外交から始まる。ソ連という脅威に対抗するために、台湾を切り捨て、中国を選んだアメリカ。だが、その「変わりつつある中国」という幻想は、天安門事件とソ連の消滅によって、もろくも崩れさった。台湾を挟みながら、得体の知れない巨大国・中国に対して、アメリカが、どのように(苦悩しながら)付き合ってきたのかがわかる快作である。
 ジョン・アイケンベリー『アフターヴィクトリー』☆☆☆
 戦勝国はどのようにすれば安定した戦後構築を行えるか。アイケンベリー先生の理論では、保持している圧倒的なパワーを抑制すると同時に敗戦国に譲歩し、敗戦国を自らの構築する様々な制度枠組みに「固定化」することであると述べる。そもそも戦勝国には三つの選択肢がある。「支配」と「切り捨て」、そして「関与(コミットメント)」である。重要なのは、言うまでもなく、「関与すること」である。
 敗戦国に戦略的譲歩をして関与することで、敗戦国を新たな制度的枠組みに繋ぎとめることができる。それによって長期的な多国間協調が可能になる。僕は、この点については異論がない。
 僕が問題だと思うのは、この「戦後構築」理論が、一定の「立憲政治体制」を前提としていることである。たとえば、政治体制が民主的かそれに準ずる「政策決定の透明性」を有していなければ、戦略的譲歩の「譲歩」もできない。そして、その枠組みに組み込むための交渉チャンネル(立憲体制)をどのように構築するのかは明示していないし、その点については選択的に触れていない(だってその体制は「戦争によって作られる」ものだから)。彼の理論から透けて見えるのは、「なんだ、結局、戦争によってすべてをガチャガチャポンしないとダメだ」という「WAR AND CHANGE」の論理である。ゼミの細谷先生によれば、アメリカ国際政治にはこの「創造的破壊理論(革命理論)」が伏流しているという。(ちなみに、イギリスでは「既存のあるものを改良」しようという「改良主義」だという)。
 桜井慶一『保育制度の諸問題~地方分権と保育園』☆☆☆☆
 80年のベビーホテル事件により、「待機児童」の問題が明らかになった。待機児童とは、母親が働く環境にある状況で公的保育園に入れずにいる児童のことである。そして、ベビーホテル事件とは、安全性に疑義があるにも関わらず、民間のベビーホテルしか受け入れ先がなかったがゆえに起きた事件だった。この事件以降、消費者ニーズに合わない縦割り行政規制を見直し、夜間保育や広域保育の増加を図ったものの、大きな改善は見られなかった。
 90年代に入り、「1、59ショック」という低出生率が発表されると、さらなる育児制度の充実が謳われた。具体策としては、エンゼルプランや新エンゼルプランが導入された。だが、同時期に「バブル不況」が不運にも重なることで、働く母親の数はうなぎ登りに増えていく。待機児童も、大都市圏を中心としてますます増えていったのである。
 次なる改革として保育園の規制緩和(民営化)と地方分権が進められたが、結論からいうと、一連の改革は、国の補助金を「一般財源化」させるのみの、国の財政再建への利用に終わってしまった。おかしな話だが、地方交付税が減ることで、財源が減ったのだ。筆者は、地方分権を掲げ、「権限」と「税源委譲」を行うために「消費税1%」の「育児保障」に特化した「目的税化」を訴える。目的税化の是非はともかく、消費税を上げての子育て社会保障の充実は喫緊の要請であると僕も思っている。
 清水唯一朗『政党と官僚の近代』☆☆
 清水先生が面白いのは、政党と官僚の融合を描きながら、元来好意的に捉えられがちな「政党政治」を、「色メガネ」をかけずに分析しているところだ。明治憲法体制に対する批判としては、「統帥権干犯」の問題に代表される「軍部が暴走したのが悪かった」というものが多い。だがそれだけでは物事を単純化しすぎている。先生は、大正デモクラシーのなかで普通選挙が導入され、世論が影響力を伸ばすにつれて、政党政治が「盛り上がり過ぎ」たことを指摘する。つまり、政党政治が盛り上がり過ぎた結果、政党同士の競争が激化することで、軍部からではなく、政党「から」軍部へと接近していった側面がある。これが、大きな弊害だったというのである。なるほど面白い知見であると僕は思った。ただ、本は値段が高いうえに難しすぎるので、初心者にはぜんぜんお勧めしないのである。
 坂野潤二『近代日本政治史』☆☆☆
 教科書的な位置づけとして利用するといいかも。流れはつかめると思う。
 北岡伸一『日本の近代5~政党から軍部へ~』☆☆☆☆
 歴史モノを読むのならば、このシリーズが面白くてお勧め。僕は全部読んでないけれど。
 寺崎修偏『近代日本の政治』☆☆☆
 友達から無料で貰った一冊。5章吉田先生の論文を中心に拝読した。大山郁夫と吉野作造、浮田和民という大正デモクラシーのオピニオンリーダーの違いを比較しながら読むと、当時の論壇の思想が少し理解できる。恥ずかしながら、民主主義と民本主義の違いが初めてわかった。知らない人のために簡単に説明するとこういうことである。民主主義は「国民に主権がある」という事況のことを指すが、民本主義は「国家の主権の活動の基本は政治上人民にあるべき」という目標を意味する。つまり、後者は、主権がどこに有るかは不問にし、天皇大権の問題を回避したまま、国民を向いた政治を行うことの必要を説く内容となっている。うむ。なんという知的アクロバット。吉野作造バンザイである。
 篠原孝『EUの農業交渉力』☆☆☆
 EU共同農業政策(CAP)における、『価格支持制』から、『直接支払い制』に移行するマクシャリー改革の過程、そこにおけるEU加盟国の内紛をヴィヴィッドに描いている。対立を抱えながらも、WTOという外圧を梃子にしながら改革を推し進める「EUの内部改革」は、是非とも日本も学びたいところ。ただ、本自体は、交渉に焦点を当てているので、もしEU農業の全体像を知りたいならば違う本をお勧めしたい。(だって細かすぎるから)。
 山本浩『仁義なき英国タブロイド戦争』☆☆☆☆
 『紳士の国イギリス』のイメージが脆くも崩れ去る、涙あり笑いありハテナありの一冊。人権侵害が横溢しているが、どこか憎めない英国タブロイド紙。たとえば、起訴も逮捕もされていない少年たちの顔写真と実名を紙面に載せて世論に訴える。「これらの若者を殺人者として名指しする」と。
 フォークランド紛争では、「やっつけたぞ!」という見出しで英国軍の戦果を鼓舞し、イラク戦争では、大量破壊兵器がないことが明らかになったのちですら、「大量破壊兵器、ブレアは正しかった」。国威発揚もここまで来ると、笑えてくるから、アブナイ。でも、やっぱり、面白い。
 なだいなだ『あなたへの手紙』☆☆☆☆☆
   大石ゼミの先輩が最後のゼミで読んでくれた一節。
  「人間は、幸福について語られることは、すぐ聞きあきる。しかし不幸については、語って語りあきるものはいないし、他人の不幸の話を聞いて聞きあきるものはいない。だからこそ、ものかきたちは、不幸な人間の話を、あくことなく書き続けてきた。でも、ハッピィエンドのお話だって、けっこう多いじゃない、と君はいうかもしれない。でもハッピィなのはおしまいだけなのさ。それが証拠に、ハッピィエンドのお話は、そこで終わってしまう。あとには何も書かれない。書きようがないんだ。それから二人は、しあわせに暮らしましたとさ。それでおわり。書いたところで読む人はいない。
 ものかきにとっては、書くことがなくなることが、いちばん困ったこと。お話を書くことこそ、僕の商売。だから、幸か不幸かよりも、語るに足る人生を生きることが問題なんだ。このんで不幸になろうとする趣味はないが、あえて不幸をおそれず、語るに足る人生を求めるといったら、ちょっとかっこをつけすぎているかね」。

 高木誠一郎編『米中関係』☆☆
 ブッシュ父からブッシュ息子までの米中関係を、あらゆる観点から検討している。台湾を巡る米中関係について、外省人である李登輝後の台湾が、民主化に伴い、中国から脱却して「台湾化」しているというのがわかりやすい。あとは6々国協議における中国の存在感と、江沢民の政治力についても、面白い。その他は、まあ、よくわからんね。
 澤井敦『死と死別の社会学』☆☆☆☆
 前近代においては、死は日常と隣り合わせであるがゆえに、宗教や共同体によって、「意味付け」られ、「包摂さ」れていた。だが、近代になると、宗教的意味付けが希薄化し、医療技術の発達や専門家、病院の出現により、死が「非日常」のものとなり、人々に忌避され、遠ざかっていく。そして、現代(ポストモダン)に入って、公的な共有された死の物語が消滅していくに伴い、私的な死、つまり「自分らしい死=死の自己決定権」が求められるようになった。
 澤井先生は、現代では、私的な「自分らしい死」を求めるようになったが、そのことは必ずしも各人に応じた「多様な死の選択」へと繋がらないという。なぜなら、新しい「良き死の物語」が背後に浮上してきているからである。たとえば、安楽死においては、「自己決定権」イデオロギーの下、「自己決定して潔く死ぬことが良き死である」という圧力がかかるし、脳死においては「自己決定して、臓器を供与するのが良き死だ」という圧力がかかるのである。選択の余地があるがゆえに、新しい「良き死の物語」を選択するよう強制メカニズムが作用し、結果的に、多様な死の幅を狭めるのである、と。
 2月
 白井勝美『絶望男』☆☆☆
 「46歳・ニート・障害者」が、その半生を文字に焼き付けたもの。雨宮処凛は、彼を「社会の矛盾を一身に体現してきた人」といい、それがこうして本として出てくることを素直に喜んでいる。僕も嬉しい。
 とんでもない暴力親父のいる家庭に生まれると、どこかで歪んだ人格に育ってしまう。自分でもわかっているが、感情のコントロールが効かなくなるのだ。「そんなの言い訳に過ぎない」と言ってしまうのは簡単だ。でもその「自分の感情はコントロール可能だ」という前提を疑うことから始めないと行けない、こともある。特に、円満な家庭でお金に困らない生活をしてきた人間は、自分の当たり前が当たり前ではないことをどこかで自覚しておかないといけない。こういう見えない部分に光を当てて、「頑張ろう」と支援を行い、本の出版までしてしまう、山本繁と言う人間は本当に尊敬できる。おめでとう☆。
 内田樹・鈴木晶『大人は愉しい』☆☆☆
 「大人は愉しそうだ」。そう思わせてくれる二人のおじさんのメル友交換日記。大学教育やインターネットの役割、果ては子育てや教育の問題について、天皇制の起原と絡めて論じてしまう。「天皇はそもそも『女性的存在』だった」という説は、面白いな、と思った。現代の教育機能の低下は、「父の不在」ではなく、「母の機能不全」であるから、「父性の復権」 などでは何も解決しないのだ。と。フェミニストからは罵倒されそうな意見だが、読んでいる自分としては、「うーん、俺はお父さんよりもお母さん的な人間になりたいな」などと考えてにやけてしまうわけで、その教育的効果は大きいと思うのである。
 ミランクンデラ『可笑しい愛』☆☆☆☆
 ミラン・クンデラは最も好きな作家の一人である。彼の小説は世界を相対的に、冷ややかに眺める。それはまるで、紙芝居のおじさんが物語を読み進め、ときどき立ち止まって解説し、また読み進めるかのようである。人によっては、「解説者」というまさしく「神」の視点から、物語を一元的に説明してしまうことに違和感を持つかもしれない。
 だが、それは決して物語の多様な読解可能性を限定するものではない。むしろ、限りなく無限に開いていくことでもある。クンデラは、彼自身の解釈について、「きみはどう思うか」と問いかけているのである。クンデラの小説を読んだ後、世界の見え方が変わってしまうのは、「現実世界」のありようを、自分ならどのように解釈するか、意識せざるを得なくなるからである。
 大串卓也『排出権取引の仕組み』
 いま話題の排出権取引。そもそも排出権とは、CO2の排出をできる権利のことである。そして排出権取引制度とは、ある一定の基準のもと、より多くCO2を排出して生産を増やそうと考えれば、お金を払って購入できるし、逆にCo2の排出量を減らせば、排出権を売却して、お金を得ることができる仕組みである。これにより、排出者は、CO2輩出を減らすためにかかる費用と排出権購入の費用を比較検討し、最も有利な行動を選択する。その結果、社会全体として排出削減のための費用が最小になるというわけである。この本はビジネスの側面(コンサルタント)からいろいろな制度や取り組みについて解説しているため、コンサルタント業に関心のある人にはお勧めするが、排出権でCO2は減るのか、国としてどうしていくのか、などの大きい視野から眺めたい人にはまったくお勧めしないのである。
 柴田明夫『食糧争奪』☆☆☆☆
 BRICsの経済成長により、世界の食糧が足りなくなってきている。特に、都市中間層が出現すると、従来の食生活に変化が起こる。つまり、肉や卵をたくさん食べるようになるのである。その結果、牛や豚、鶏などの畜産のために膨大な飼料穀物が消費されるため、これまでの穀物供給量では間に合わないのである。実際に輸出ストップを行う国が次々出てきている。一方、日本の自給率は39%。といっても、それは肉や卵のカロリーも含めた自給率である。日本の畜産飼料のほとんどが、アメリカからの穀物輸入に頼っていることを考えれば、実質的な自給率は穀物ベースの22%に過ぎない。
 …では、日本は今後どうすればよいのか。筆者は、「農地」に着目して、「耕す意志のあるものに農地を与えるべきだ」と主張する。戦後の農地改革により、耕作の意志のある自作農が「国家統制の下」に出現した。だが農地の高騰や農業の近代化により、兼業農家が多く生まれることになった。そして、農地の多くが使われずに、でも農地の転作を期待して売却されずに、荒地になったままだ。だから、彼は主張する。さらに規制を緩和して、「経営感覚を持ったやる気のある人間や法人(株式会社)」に、積極的に農地を貸し出し、利用していない農地を徹底的に使い尽くすべきだ、と。これには自分としてまったく異論はないが、ではどのようにして、強い意志と経営感覚を持った新規参入主体を取り込めるのか。、それはまた別の難しい話になってしまう。。。
 ミラン・クンデラ『無知』
 主人公のチェコ人女性・イエナは、1968年の「プラハの春」の挫折後、フランスへ亡命した。だが1989年、チェコに再び民主化の波がおこると、彼女は解き難い問題に直面する。「チェコに帰るべきか否か―」。苦悩の末、彼女は、チェコへの「大いなる帰還」を選択する。そして、愕然となる。チェコが、20年前とまったく異なる国になっていることに。そして、現地のチェコ人にとって、彼女はあくまで“逃げた”人間であり、「異邦人」となっていることに。そこではイエナの話を聞こうとする者は誰ひとりいない。彼女の苦しいフランスでの生活は、まさに「空白の20年」だったのである。…自身、チェコからの亡命した経験をもつクンデラにとって、この「無知」という作品は、自分の存在を問い直す作業そのものでもあった。
 小田嶋隆『テレビ標本箱』☆☆☆☆
 テレビが崩壊しつつある。腐臭すら漂い始めた劣悪なテレビ番組に対して、オダジマンは、上から下から斜めから縦横無尽になめるように批評しつくす。ときに投げやりになりながら、ときに身を寄せながら。…まあ、そんな言葉並べたって仕方ないよな、一言でいえば、「面白過ぎる」ってことよ。
 竹森俊平『1997年の金融危機』☆☆☆
 要約を書こうと思ったときに、あ、書けないと思ったら、それは本の内容を理解していないことなんだな、要するに。…もう一度、読み直さないと。。。 
 ミラン・クンデラ『ほんとうの私』☆☆☆☆
 吉武信彦『日本人は北欧から何を学んだか』☆☆☆
 3月
 辺見庸『もの食う人々』☆☆☆☆☆
 神門善久『日本の食と農―危機の本質』☆☆☆☆☆
 ジョン・ウッド『マイクロソフトでは出会えなかった転職』☆☆☆☆☆
 内田樹『街場の現代思想』☆☆☆
 広井良典『持続可能な福祉社会』☆☆☆☆☆
 小松秀樹『医療崩壊』☆☆☆☆
 チャールズフィッシュマン『ウォルマートに呑み込まれる世界』☆☆☆
 先崎千尋『農協に明日はあるか』
 松永和紀『メディアバイアス』☆☆☆☆
 4月
 山本謙治『農産物トレーサビリティー』
 
 

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『北欧はここまでやる!』

 1月12日の東洋経済の「北欧はここまでやる」特集を読んだ。やばい面白い。
 なにが面白いかというと、①高福祉と成長は矛盾しない。しかも、②北欧の一国の規模は、日本の大都市と同規模なので、分権の観点から日本にも応用できる(?)。―このように日本の喫緊の課題に対して「北欧モデル」という処方箋を具体的に提示しているのである。久しぶりに、読んでいてワクワク希望が溢れてきた。僕は来年から(旧)「自由の国」のスウェーデンに留学に行くのだが、この特集はまさに僕がかの地で勉強したかったことそのままであったのだ。
 最近、(似非)就活を通じて、社会人の話を聞く機会が多い。そこで彼らからよく聞く話が、「仕事」を取るか「結婚(そして子育て)」を取るかという二者択一の悩みである。女の人は、「仕事も続けたいけど、さすがに子供ができると無理かしら」という。男の人は、「まあ僕がちゃんと働くから、家事と育児をしてくれる相手が欲しいのだけど」、という。
 僕は、「そこそこ仕事をしながら、そこそこ家事及び子育てをすれば良いんじゃないんですか」、と質問する。そうすると、男の側からも女の側からも決まって、「社会はそんなに甘くない」と、フフン(福田首相)というような顔で言われる。「育児休暇があったとしても、ちゃんと仕事ができる人(能力のある)人じゃないと利用できないし、そもそも休んじゃったら仕事に戻るのは難しいのだよ」と。
 ふーん、と思う。僕はあまり釈然としない。そして、たぶん、この人達は、競争社会を勝ち抜いてきた人達だから、「仕事」をバリバリやりたいんだなと、一方で納得する。でも、「幸せ」についての認識の幅が狭いんじゃない、とも一方で思う。
 「そこそこ派」という選択肢をもっと増やしていいはずだ。「私もそこそこ派でいければそこそこ派に入りたい」という人は、実はもっともっとたくさんいるはずだ。僕はこのブログのなかでささやかにそう主張したい。そうだ、働きたい人は働けばいい。「子育てに時間を取りたい」という人はそうすればいい。そういうことができる制度があるべきだし、それについての選択の余地があるべきである。―問題なのは、日本にはそういう制度があまりないし、たとえあったとしても、「何だかんだ」、利用しにくいところだ。
 実際、日本では、男性の育児休暇取得率は1%未満である。
 
 この特集記事に出てくるノルウェーでは「90%」以上の男性が育児休暇を取得している。驚くべき数字である。スウェーデンでも同様である。子持ち(6歳未満)の女性の80%が働き続けている。日本は35%しかいない。しかも、北欧の教育費は大学までほとんど無償だから、安心して子育てができる(ノルウェーの出生率は1,9倍に上がっている)。
 一度、住んでみたら、本当にびっくりすると思う。「幸せが何なのか」という社会的合意が、日本とはあまりにも違い過ぎる気がする。というか、日本はそんな合意はたぶんない。だからこそ、僕は「そこそこ派」で行ければ結構幸せなんじゃないかと「あえて」小声で訴えたい。普通に生きて、普通に暮らせれば幸せだろうと。「そんな悠長なスタンスじゃ、日本の経済成長は鈍化してしまう」、とか言われても知るかこのヤロウって感じである。そもそも、そうやって「そこそこ派」を無視して、子育て環境を整備してこなかったからこそ、子供の数も減って、経済が鈍化してきたんじゃないかこのヤロウ。
 × × × × × × ×
 この特集は、①高福祉と成長は矛盾しないということを様々なデータをもとにして論じている。ただ、それはすべて北欧が「いま好調」ということを前提としている。だが、皆さんご存知のとおり、いま世界のマネー潮流では、ヨーロッパと石油新興国のマネーが物凄い勢いで上がっている。(そして、ドルが下がり、それに付随して円も下がっている)。北欧の伸びも、ある意味、EU圏のユーロ高の伸びに牽引されているだけではないのかという指摘もできるかもしれない。まあ、よくわからないけど。
 あと、(これは関係ないけど)、本当に「円」はまずい事態になっている。日経新聞のYEN漂流という素敵な連載にもあったように、YENの価値の低下は留まることを知らない。日本はもはや大国ではない。ただの弱小国である(ミドルパワーでもない笑)。一人当たりのGDPが、イタリアよりも低いのが実体である(IMFのホームページで確認すべし)。某外資系企業の人事曰く、「日本人を雇え、安くて済むぞ」ということがまことしやかに語られているのである。食料・穀物を輸入できるお金がいつまで続くか、本当にここは考えないとまずい。
 …といっても、僕は楽天家なので、まあしょうがないじゃんと考えるようにしている。日本の経済規模が下がったら、下がったなりの生活に落として、地味に質素に暮らしていけばいいじゃないかこのヤロウと思っている。自給自足の生活バンザイである。

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おぐしのお勧め本2007

 2007年に読んだ本の紹介をし忘れていたので、遅ればせながら紹介したい。
 ①内田樹『下流志向』
 お馴染みのわが師、タツル大先生。数多ある教育や労働に関する評論のなかでも、先生の卓見がもっとも凝縮されまとまっている良本である。いわゆる『学びからの逃走』や『労働からの逃走』という現象は、資本主義の浸透、そして『経済合理性』と『等価交換』(の概念)の浸透によって牽引されていると先生は語る。
 これだけだと単に苅谷剛彦や佐藤学らの研究をパクっているだけであるが、オリジナルの知見として先生は、『労働主体』と『消費主体』というキーワードを盛り込むことで、現代の若者が『労働主体』としてより先に、『消費社会』として立ち上がっていることを指摘する。つまり、学びや労働は、本質的に『空間』の二次元モデルではなく、『時間』の三次元モデルとして把握されるべきものであるにも関わらず、『消費主体』として先に立ち上がってきた子供たちは、『経済合理性』に裏打ちされた『等価交換』としてしか物事を捉えられなくなっているのである。
 上記の精緻な分析とともに、終章における先生に対する質疑応答はお勧めである。労働とは何か、自分とは何か、学びとは何か―このような哲学的問題について『交換』という文化人類学的な叡智を参照しながら、説得力のある知見を提供してくれる。特に上記の問題に頭を巡らせている就職活動生には是非とも読んで頂きたい一冊である。
 ②広田照幸『日本のしつけは衰退したか』
 「家庭の教育がちゃんとしていないせいで、子供がダメになった(家庭の教育力の低下)」――このような感情的で根拠のない物言いが政治の世界(だけでなくメディアの言説で)で蔓延している。実際、そのような現状認識に押されるかたちで06年、改正教育基本法には「家庭教育の重要性」が条文として盛り込まれることになった。
  
 広田先生は、「家庭の教育力の低下」という現状認識自体が間違っていると主張する。彼は家庭、学校、地域という三つのファクターに注目しながら、歴史的に、それぞれの「教育力」の発展と相互の連関関係を分析した。そこで明らかになったのは、家庭の教育力(ここでは両親の子供を教育する意思)は時代を経るごとに格段に高まっているという事実である。
 そもそも、明治期まで、ほとんどの家庭では子供を「労働力」として見ていた。「良い子」に育て上げようという「意思」を持っていた家庭はほんの上流階層クラスに限定される。たいていの子供は外に放り出されていたのである。そして、そこで機能していたのは受け皿としての地域社会であり、地域社会が子供の教育を担っていたのである。
 このように家庭よりも『地域社会』が子供の教育的役割を担っていた。だが徐々に教育の主な担い手が移り変わっていく。いわゆる学校制度が出来上がってきたのである。そして、家庭は学校という権威的存在に教育を丸投げするようになり、教育における学校の占める役割が増大していく。学校の権威が戦前戦後を通して頂点に立つのである。
 しかしまたもや変転が起こる。60年代70年代を通じて学校的権威が低下していくのである。それまで丸投げだった家庭が、学校の教育に対して『口出し』をするようになり、積極的に子供の教育へと関わり始める。家庭の教育する『意思』がスイッチが入ったかのように亢進し出すのである。70年代の社会的リベラルからの「学校」の「閉鎖性」批判を皮切りにして、あるいは80年代の経済的リベラルの「競争原理(教育の自由化)」の導入議論と相俟って、「学校制度なるもの」への批判が高まる。これが歴史的な教育の基本構図である。
 広田先生が本書を通して怒っているのは、家庭の教育する「意志」は一貫して増え続けているにも関わらず、そのような事実を無視する形で、政府が、家庭の教育の重要性を必要以上に騒ぎ立てていることである。つまり、家庭が果たすべき教育の役割を過度に「高く設定」することで、そこからはみ出してしまう家庭を「ダメ家庭」としてラベリングすることになり、その結果、ラべリングの暴発として、たとえば、児童虐待などの問題を引き起こすことに繋がりかねない。しかし、これらの潜在的な問題は、家庭教育の重要性の裏返しとしての「家庭の自己責任」という文脈を隠れ蓑にして、政治的権力性は隠蔽されてしまうのである。
 ③手嶋龍一『外交敗戦』
 ④伊勢崎賢治『武装解除』
 僕が国際政治を勉強しようと思ったきっかけはズバリ『国際貢献』とそれに伴う『9条』の問題をどのように処理すればいいのか考えざるを得なくなったからだ。日本のことばかりしか考えずに、あるいは体外的なことしか考慮せずに、上記のセンシティブな問題は語ることができない。
 手嶋龍一の『外交敗戦』は、日本の国内を二分した、湾岸戦争における『国際貢献』を考えるうえでの必読書である。「国際貢献」は、国内問題と対外問題とをどのように帳尻合わせるかが重要であり、国内だけを見ても不十分だし、対外だけを見てもダメである。
 『武装解除』の伊勢崎賢治は、国連の平和維持活動や暫定自治政府の最前線で指揮を取ってきた紛争屋である。彼は、現在の日本の国際貢献論は、全く現場が見えていないという。自衛隊(軍事力)を派遣するかしないのかという点のみが「国際貢献」として語られるが、では現場は一体どのようになっていて、何を必要としているのかが見えてこない。
 現場の視点とともに、彼は現場人として「軍事的貢献」をどのように考えればいいのかという政治的視点まで踏み込んで考察している。単なる派遣反対でもなく派遣賛成でもない。まず現地の現状認識、を徹底的に行った上で「日本の国際貢献」を考えるという姿勢の重要性が身に染みる。

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目黒不動尊に来てね

 目黒不動尊というお寺で年末と年始、売り子のアルバイトをしています。
 
 元旦の午前中、サークルの先輩の4年生たちが来ていました。僕には気がついていなかったようですが、みんなでおみくじを引いて見せ合いっこしていました。羨ましい。目黒近郊にお住まいの方はどうぞお札を買いに来てくださいませ。2日、4日、6日は終日います。
 

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2007年の総括。

 今年、最後の日になった。今年も何とか楽しく愉快に過ごすことができた。一年の締めくくりとして、今年の総括をしたいと思う。ちゃんちゃん。
 まず、2007年の目標とその達成具合を振り返ることにしよう。 1月、島根県の隠岐島・海士で立てた目標は以下の通りだった。
 ①交換留学の試験に合格する。
 ②オオイシで良い論文を書く
 ③良い作文・文章を書く
 ④彼女を作る
 ①もっとも最優先目標であった「交換留学」は無事に達成された。スウェーデンに滑り込みのセーフだった。もともと大学は留年するべきものだと信じて疑っていなかったので、長年の宿願がかなってこれからの大学生活もさらに希望に満ちたものとなった。文句なしのマンセーである。
 ②次に懸念事項であった「論文作成」も無事に終わった。最後まで頑張った甲斐があり、自分的にはある程度のクオリティーのものができたと思っている。もちろん出来上がった完成品の出来具合よりも、作成過程の血の滲むような思考の爪あとが自分の中に残っていることが、嬉しい。ただ、最後の校閲とまとめの気を抜いてしまったことは少し後悔している。この教訓を次に生かせれば、と思う。
 ③ぜんぜん良い文章が書けなかったし、そもそも2007年はあんまり作文や記事を書いていない。残念だ。しかも自分の読書歴を振り返ってみると、びっくりすることに、インプットの段階であんまり小説系ジャンルを読んでいなかった。あんまりというか、合わせて14冊しか読んでいなかった(夏目漱石×4。シェイクスピア×4。村上春樹×2。ミランクンデラ×1。中上健二×1)。もっと美しい日本語と派茶滅茶な物語に触れて文章を磨かねば……。
 ④…残念でした(笑)。
 × × × × × ×
 2007年も盛りだくさんの一年だった。一応、「学業」を頑張る年として、ゼミを生活の中心に置いて過ごしてきたが、振り返ってみると別にゼミだけしていたわけではない。ご承知の通り、僕は『誘われたらNOと言わない』を第一の行動原則として生きているので、今年も皆さんのお誘いを受ける形で様々な活動に身を置くことができた。離島での生活、地方の活性化、ホームレス、学校の現場改革、NPO語り場、オールニートニッポン、社会人との勉強会、そして飲み会の嵐―。
 2007年を振り返って改めて確信した。僕は自分から主体的に動かない人間だと。むしろ受動的な人間といって過言ではない。他の人が誘ってくれないと動かない。誘ってくれると喜んでいく。常に相手の呼びかけが先にある。だから受動なのである。そして、それはある種、徹底的ですらある。その意味で、自分の「受動性」には多少の自信がある。もし面接で「あなたの強みは何ですか」と聞かれたら、きっぱりと「受動性です」と答えるだろう。
 だが、よく考えれば、他の人が誘ってくれないと動かないということは、誘ってくれるドナタかが奇特にもいるということだ。受身な僕は、何かを差し出してくれる人がいないと自分で立つことはできない。今年を楽しく愉快に動くことができたのは、いろいろと差し出してくださる友人・仲間・知り合いのおかげである(ほんとに)。2008年も僕の強みである受動性を発揮できるよう、みなさんの主体性にますますの期待をさせてもらうのである。よろしくよろしく。

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愉快な一日

 「やるべきこと」がなくなったあとの手持ち無沙汰な一日は、愉快である。
 その日、7時に起きるとすぐ映画を見た。オアシスという韓国の映画。軽度の障害を持った男が、ほとんどしゃべることができない、自分の足で立つこともできない女に恋をした。誰からも煙たがられる男。いつも歪んだ表情で、何かを訴えるように手足をばたつかせている女。
 突然、男は、女に襲い掛かった。女は、頭をくねらせ、体を振りながら、もがき苦しむ。その様子は、激しく痛ましい。『正常』な人間ならば、つい目を背けたくなる光景である。だが、映画は次のように問いかける。「どうして、女の気持ちがわかるのか」と。
 女が本当に苦しんでいるのかは、実は、視聴者には判断できない。なぜなら、女は自ら自由自在に感情を外に表現することができない、嬉しいときに笑うこともできない。苦しい状態こそが「普通」の状態であるからだ。こののち、コミュニケーションから排除されるがゆえ、コミュニケーションに飢える二人がお互いを求め合うようになる。
 お昼、「創造工房」の演劇を見に日吉へ行く。
 肌寒いが、天気は快晴。劇まで時間は存分にあるので、ひようらに立ち寄る。
 窓越しに太陽の日を浴びながら、スターバックスで手嶋龍一の『外交敗戦』を読む。湾岸戦争で日本は何を失い、どう変わったのか――。そんな主題より何より、多大な支援をしたにも関わらず、感謝を示さなかったクウェート政府の無神経さに腹が立った。不健全なナショナリズムが僕の中でごうごうと音を立てて高揚していく。
 18時、演劇「止まらずの国」が始まった。
 舞台は、見知らぬ中東の国のドミトリー(安宿)。6人のうちの3人は、ベテランのバックパッカー。2人は旅を始めたばかりのド素人。1人はやっと旅慣れてきた感じの男。
 物語の前半部分は、日本の『日常』の生活と対比させることで、異国・中東の地の『非日常』の生活を、驚きと興味をもって生き生きと描き出す。だが、この異国の非日常性をだらだらと時間をかけて演じることにより、舞台上には「慣れ」が生じてくる。その結果、異国はだんだんと「自国的なるもの」へと変質を遂げていく。「人間、みんな優しいじゃん」という、ある種の博愛主義にも似た感覚が醸成されていくのである。
 この柔和な雰囲気のなかで何が起こったかというと、すなわち、テロリズムだった。
 ドミトリー(宿)の外では、突然、けたたましい爆撃音が鳴り響く。どこからともなく兵士と戦車が姿を現し、「普通ではない」雰囲気に現場は包まれる。日本の旅人たちが作り出した、異国の『穏やかな幻想』イメージはまもなく瓦解し、極度の非日常性が再び舞台を覆い込む。そこから、彼らの頭に想起されたのは『帰るべき平和国家像』としての日本であった。
 帰りの電車のなか、夏目漱石の「草枕」を読みながらこう考えた。暇が一番だと。

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面接官をしてみたけれど。

 属している研究所の入所試験があり、僕も教授とともに、面接官として参加した。人間としても未熟で、勉強不足の僕が偉そうに面接官をするのもどうかと思いながらも、めったにない機会なので、できるだけ誠実に(やや楽しみながら)一生懸命に取り組ませてもらった。
 面接官は、教授が一人に、僕ら学生が二人。入所希望者が5人のグループ面接だ。
 基本的に「研究所に入って何がしたいのか」についての志望動機を質問して、あとは、大学生活で頑張ってきたことや今まで最も影響を受けたことなど、極めてオーソドックスなことを聞いた。
 今回、面接する側に立つことで、いくつか新しい発見をした(気がする)。
 ・元気と覇気がない人は、印象が悪くなる。
 ・話が長くて冗漫な人は、追加して質問したくなくなる。
 ・「今までで一番大きい挫折は?」と聞くと、95%の割合で「入試で落ちた経験」と答える。
 ・「尊敬する人は?」と聞くと、8割くらいが「親族系(父母祖母、先生)」と答える。
 ふむ。概して分かったことは、5分の面接では、「何もわからない」、ということだった。一人ひとりにもう少し個別に突っ込みを入れる時間があれば、その人の人間性やポテンシャル(伸びしろ)が分かるかもしれないが、ひとつ質問を投げかけてそれに対して順番に回答していくという機会的な方法では、正直いって、よくわからない。
 もちろん、志望動機という核については、ちゃんと準備してくれば簡単に伝わる。ちゃんと言えれば評価は良くなる。本気で入りたい勉強したいという人は、もうほとんどこの段階で判別可能である(本当に少ない数の人達であったが)。問題は、最近になって準備を始めてあんまり問題意識を持っていない人達の評価についてである。そして実際、このような「漠然とだけど入りたい」という中途半端組が、大半を占めているから難しいのである※。
 (※もっとも、本質的に「学び」とは事後的に感覚されることなので、学ぶ前から自分が学ぶことを明確に言語化できるということはありえない。漠然として入りたいというのは極めて健全な気持ちだと思う)。
 ともかく、難しいのは、まだ問題意識も持っていないし、勉強もそこまでしていない、これから研究所に入って問題意識を見つけていきたいという(中途半端な)人に対する評価であり、彼らが「今後(勉強して)伸びてくれる」人間なのかどうかの(ポテンシャルの)見分け方である。
 いわゆる、「見る目がある」人というのは、この「表面には出てこないけど、実は芯や核がある、ポテンシャルのある人間を見分けることができる」人間のことであると僕は思っている。(だって、できる人を見分けるのは、誰でもできるから)。
 今回、僕はそれがことごとくわからなかった。もしかしたら、本当に潜在的にやる気がある子に×印を押してしまったかもしれない。そうなっていたら、本当に申し訳ないと思う(といってもほとんどが先生による評価で決まるから関係無いと思うけれど)。
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 ちなみに、質問して分かったことは、奇抜な質問は何も意味あるものを引き出せないということである。「尊敬する人」や「最も大きい挫折」という質問ですら、何も新しきものを引き出すことはできなかった。普通に、「大学入ってから頑張っていること」や「今頑張っていること」を聞いた方が有益だった。
 うちの教授の質問は、なかなか厳しかった。たとえば、「歴史認識と聞いて、何を連想するか」「アメリカ大統領選について自分の思うところ」「自民党と民主党の大連立について」などなど。
 これは賛否が分かれるところだと思う。
 大半の学生があまり答えられていなかった。挙手制だったので、全く知識がないからと「お手上げ」の学生もわんさかいた。たぶん、僕が二年のときでも、答えられなかったと思う。気の毒ではある。でも、先生としても、別に完璧な回答を求めているわけではなく、どのように答えるのか思考するのかを見ていたはずである。例えば、歴史認識については、難しいなりに自分の中の少ない知識を集めて答えようとしている子もいるにはいた。この質問により、確かに「差」は見えやすくなった。良い質問だったと僕は思っている。
 ただ、他のグループの面接が、どれほどのものだったのかという問題がある。他と比べて、明らかに難しかった、かもしれない。他を見ていないので、何ともいえないが、もしそうだとしたら、確かに可哀想ではあった。来年度に向けて、もう少し改善するところはあるかもしれない。

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