携帯は紙袋の中へ

 、母親に電話だと叩き起こされた。出てみると、女の人の声だった。「あなたの携帯を持っているのですが…」。まだ意識がボンヤリ暗い。よく理解できずに呆然としていると、彼女は続けていう。「昨日、終電で家に帰って紙袋を見てみたら、この携帯が入っていてびっくりしたんです」と。
昨日の夜はうちのゼミと早稲田のゼミと合同勉強会(という名の飲み会)があり、久々にビールをガブガブ飲んだ。いつの間にか参加していた二次会ではずっと寝ていて、そのあと終電でフラフラしながら帰ったのである。 電車の席で友達にメールをしていたことは覚えているが、そのあと寝てしまって記憶にない。席に座っていて、なにをどうしたら携帯が紙袋の中に入るのだろうか―。なぞだ。
 やはり日本は良い国というべきか、その女性が良い人というべきか。とにかく携帯を郵送で送ってくださるとのこと。なんともありがたきことだ。というわけで、明日か明後日までは携帯は不通になってしまうのである。よろしく。

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社会起業家特集@塾新

 生新聞の6月号に、社会起業家の特集としてインタビューを載せています。
 その中の一人、映画監督の柳明菜さんの映画『今日という日が最後なら』が、明日23日(月)に18時から三田キャンパスの北館ホールにて上映されます。舞台挨拶もあるらしく、サンプラザ中野さんも来るみたいです。柳さんは映画監督というよりも幅広い総合アーティストというイメージで、感性に溢れてパワフルな人です。きっと面白いと思うので時間がある人はぜひぜひ行きましょう。詳細 
 柳さんの記事 → http://www.jukushin.com/article.cgi?k-20080607
 その他では、病児保育で起業をしたフローレンスの駒崎さん。「社会を変えるを仕事にする」という駒崎さんの著書は、自分の起業の体験と合わせて市民が果たすべき役割を分かり易く説明していて、僕たちに勇気を与えてくれます。ぜひぜひ一読することをお勧めします。
 駒崎さんの記事 → http://www.jukushin.com/article.cgi?k-20080605
 最後に、若者支援をしているNPOコトバノアトリエの山本繁さん。すでに何度かこのブログでも紹介しましたね。コトバノアトリエの事業の柱である「トキワ荘プロジェクト」や「オールニートニッポン」などの破天荒なネーミングから分かるように、かなりクリエイティブ肌な人です。それでいて徹底的に「経営者」な人です。「相手が本当に求めているものを提供する」。「ニーズから出発する」というのは、社会起業にしろ普通の事業にしろ、どんな仕事でも同じなのかなと思いました。
 山本さんの記事 → http://www.jukushin.com/article.cgi?k-20080606

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グローバルな地球福祉へ

 5月27日、三田キャンパスを訪れたU2のボノは学生に問いかけた。「あなたたちは、アフリカ人を対等の人間(兄弟)だと思っているか――そこから考えることが大事なんだ」。
 そんなの人間として当たり前じゃないか。心情としてそう思った。だがそんな思いは、現実の前ではあまりにも無力であることもわかっている。彼らを対等だと思うことに僕は恥ずかしさ覚える。だって現実はそうじゃないのに。
 1日1ドル以下の生活で、食べ物が足りず、水すらも飲めず、マラリアやエイズで無為に死んでいくアフリカの人々。そして、飽食の限りをむさぼり尽くす日本人――。これはどう考えても対等なんかじゃない。ボノがいくら「人類はみな兄弟」だといったところで、国家の仕組みとしてはそうなっていない。というよりも、もともと「命に差をつける」ことが国の役割なんじゃないかって。
  × × × × × × × × × × × ×
 なぜアフリカ人を助けることができないのか―それは彼らがアフリカ人だからである。
 アフリカ人と日本人の間には、「国民国家」という超えられない壁がある。国民国家は、「ある国民」を独立排除的に発見し、選別し、規定してしまう。17世紀頃から、中央権力(徴税権と警察権)が整備されるにつれて形を持ち始めた国民国家は、言語(国語)の統一や徴兵制の誕生により発展を遂げていくが、ここでは特に、戦後、「福祉国家」の整備により強化されてきたことを指摘したい。
 「福祉」という言葉を聞くと、私たちは「弱者に優しい」や「みんなが豊か」という「善き」イメージを抱きがちであるが、「ナショナリズム」や「国民」という概念を基盤とする福祉国家は、「自国至上主義」という性質を持たざるを得ない。ここでいう「みんな」とはすなわち「日本人みんな」であり、「外国人」は含まれない。富裕な「日本人」からお金を集め、貧しい「日本人」にお金を回す。国家の内側で税を徴収し、調整し、再配分することで「日本人」を保護する。それが原則的な福祉国家である。
 だからこそ、自国民の社会保障費や教育費が優先的に配分され、対外援助は後回しにされるか、あるいは国益と結びついた形でしかなされない。つまり、対外援助の財源は、基本的に、余ったお金である。それゆえ対外援助とは、日本の景気が悪くなれば減り、景気が良くなれば増えるというような、常に国家の台所事情に左右される、不安定な砂上の楼閣に過ぎない。
 ここまで書いてきたところを振り返ると、日本政府が日本人からお金を徴収し、日本人にお金を再配分する仕組みの中では、「日本人」でない人間に対して富を再配分する義務はないと考えられる。対外援助を考える際にはこの現実が大前提としてあるが、だからといって本当に「日本人ではない人間」に再配分しなくていいのかというと、もちろん、そういうわけではない。
 それはなぜか――。みなさんご存知のとおり、現在はグローバルにモノや人が行きかい、グローバルに経済活動を行う時代だ。国家横断的な経済活動により経済利益を享受しておきながら、その利益を自国だけで独占するのは許されない。
 ゲハルトとボノがいう「グローバル化の果実だけを得て、その責任を果たさないことは正義ではない」、「慈善ではなく正義を」という主張は、その意味で革新的であった。地球資源や途上国を使って「利益」を上げている以上、利害関係者としての彼らにも「利益」を与え返すことが必要であると。
 グローバル国際社会の一員として、グローバルに他国を行きかい、グローバルに地球資源を使い、グローバルに利益を上げている以上、日本が「日本人」や「日本」という国家内部だけでの再配分に安住することは許されない。これまでは「一国福祉国家」として自国内だけで再配分を行ってきた日本は今後、「地球人」の一員として、最終的にはグローバルな福祉環境を整えること、つまりグローバルに再配分を行っていくことが必要になると考えられる。
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 「一国福祉」から「グローバル福祉」へ――言うだけなら簡単だが、課題は多い。
 たとえば、グローバルな利益を得ているからグローバルに再配分を行うべきだという指摘はもっとものように思えるが、それを行う主体が「国」(あるいは権限を付与された「国際機関」)である必然性はないかもしれない。グローバルに進出していく企業が、自らの利益をCSR(社会的責任)などを通じて現地や世界に還元していけば良いではないか、というわけである。
 ただ、グローバルで得た利益を、グローバルな責任から与え返すといっても、どれくらいが正当な返還の額なのかはわからない(「exどこまでが正義でどこまでが慈善なのか」)。そもそも株主の圧力があるため、その「正当な額」を返還できるかというとかなり疑わしいといえる。
 おそらく、企業が積極的にCSRにコミットしていくことは必要だと思うが、彼らの自助努力に期待するのはやや無理があろう。そこには何かしらの仕組み(権力による介入)が必要となってくるはずだ。
 グローバル環境税(使途は無償援助のみ)のような形で企業から徴税した財源をODAに組み込み、国が再配分をしていくのか。あるいは「国」の意思を反映させないために「国際機関」が徴税と再配分を担っていくのか。もし国際機関が主体となるのならば、その資金の使途と透明性と効率性はどう担保していくのか――国連はピンハネ機関とも揶揄されている――それが課題であろう。

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何となくエマソン。

 6時30分に起きて、芝浦のテレアポのバイトに行く。朝にバイトがあると1日を効率的に使っている気がして気分が良い。今日のバイトでは、ネットサーフィンとブログ更新をしながら過ごした。
 日曜日は、概して仕事は少ないし管理職の方も来ていない。少人数で若い社員が中心なのでまったりとした雰囲気に包まれている。小学校のときの、先生がいなくなった自習教室の雰囲気に似ていなくもない。社員の方はみんな物腰柔らかいし、気を使ってか、よく声をかけてくれる。物腰の柔らかい人がいれば、どんな会社だろうと楽しく過ごせそうな気がするが、どうであろうか。
 14時にバイト終了。三田キャンパス東門前のすかいらーくに行く。お昼の忙繁時を外した15時あたりに入ってドリンクバーを注文するのが最近のスタイルである。特にお気に入りが抹茶ラテ。ふんわりとした泡が甘くて、舌にとろける。マジ美味いので調子に乗って3杯飲んだ。周りを見渡すと、制服を着たサッカー部っぽい高校生が10人ほどワイワイしている。閑散としていた感じ。
 原書講読の課題本であるエマソンの「自然論」を読んだ。
 エマソンは19世紀アメリカを代表する詩人であり、超絶主義者である。カントの観念論のカテゴリーにも入るが、エマソンはどちらかというとギリシャ哲学におけるプラトン哲学や東洋インド哲学の影響を受けていてかなり特異な思想といえる。
 エマソンはいう。かつては人間は神や自然と直接的に対峙していたが、いまは伝統主義に縛られ、手あかのついた知識に依存し、自らの本性から切り離されて天地万物とのつながりを失っている。過去の古い歴史や哲学は、本当の意味での知恵でも探究でもないと切り捨てる。自分自身が立っている足場にまなざしを向けて、そこから聞こえてくるメッセージに対して耳を傾けること、そして、その聞き取ったメッセージこそが自己存立の基盤であり、自己の本性への理解の第一歩となるという。
 「自己を信頼することが知恵の始まりだ」。
 このような自己の悟性を信頼する姿勢は、「独立自存」として多くの人に影響を与えた。ちなみに、福澤諭吉は、アメリカ訪問の際にエマソンと会談したことがあり、エマソンの独立自存を「独立自尊」に読み替えたともいわれる。(エマソン入門より)
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 自分の心の奥に手を当ててみると、どこからともなく「現在の日本社会がどうなろうとそんなのどうでもいいじゃん」という声が聞こえてきた。なるほどなるほど、社会を良くしたいとか言いながら、実際はそんなに強く願っていないのかもしれない。とりあえず、今週は何だか無気力な感じである。自分の感性や悟性に、もう少し忠実に過ごしてみよう、なんて思ったりする。
 とりあえず、カラマーゾフの兄弟を読んでいるところ。半分鬱状態に突入せり。

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ラストフレンズ

曜ドラマのラストフレンズが面白過ぎる。みちる(長澤まさみ)、けいた(瑛太)、ルカ(上野樹里)の3人が、「DV男」のそうすけ(錦戸亮)を交錯させながら、それぞれのトラウマを引きづりだし、ぶつけ合い、乗り越えていくストーリーである。
 このドラマの卓抜性は、脚本や音楽とともに、サスペンスを亢進させるカメラワークにある。登場人物を映すカメラワークが、常に「誰かの視線」に同調する形で描かれる。例えば、みちるがけいたと仲良く二人で話をしているシーンを考えればよい。二人が話をしている当の場面を眺めているのは誰なのだろうか。このドラマでは、その「視線の主体」を明らかにはしない。
 だからこそ、そうして「宙吊り」の状態に置かれた視聴者は、「DVのそうすけが、みちるたちを監視しているのではないか」と思ってしまう。ここが重要な点である。逃げるみちるをどこまでも執拗に追いかける、そうすけ。その「狂気的な存在感」が、視聴者の脳裏に埋め込まれることで、視聴者はそうすけの「目」を意識して見ざるをえなくなる。
 狂気のそうすけ。この存在を単なる「邪悪」な人間としてのみ描いていない点も、評価したい。DV男という「怪物」である一方、孤独で、どこか弱々しく、哀しげでもある。今日の放送では、そうすけが最後に自殺を図ったという設定になっているようだが、彼の苦悩やトラウマをどのように描いていくのか、他の三人の過去をどのように清算して、未来へとつなげていくのか、最終回が楽しみだ。

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昨日のこと

 昨日、千葉そごうで帽子を4つ買った。水色のチェック柄のハンチングタイプ。ベージュ色の横に広いハンチングタイプ。そして、赤紫のキャップと肌色のキャップの帽子――。水色のチェック柄が一番のお気に入りになりそうだが、どれだけ使うのかは未知数。個性の強い色を使うには、他の服装を地味にしないといけないから難しい。結局、無難にベージュ帽子の出動が多くなりそうな気がする。
 買い物の後、千葉京成ローザで映画・「最高の人生の見つけ方」を見た。前半と後半をつなぐ緻密な構成と二人のコミュニケーションの描き方は上手かったが、既視感があり、少し物足りなかった気もする。余命半年で死ぬはずの二人は実は死ななかった、みたいな展開だったら面白かったのに。
 夕方の18時、映画館の目の前のデニーズに行く。窓際の席で夕日が少しずつ沈む只中にあって、開高健の「輝ける闇」を読了。彼の文章には装飾が少ない。形容詞をそぎ落とし、ひたすら事実に目を注ぎ、事物の一つ一つを並び立て、それぞれの「風景」と「匂い」をかもし出す。主人公は言う。「使命(意味)は時間が立つと解釈が変わってしまう。でも、匂いは変わらない」(P108)。
 驚愕だったのは、ラストのサイゴン政府と米軍がべトコン陣地に突っ込んでいくシーンだ。ベトナム兵士と米軍の大尉は、自分たちの戦いが無意味だとわかったうえで突っ込んでいく。傍観者であるはずの新聞記者の主人公は、自分の立ち居地の安寧に苛立ち、兵士と一緒に最前線に乗り込んでいく。すべてが途方もなく馬鹿げているが、馬鹿げていると分かったうえで突き進んでいくそのシーンを、僕たちは馬鹿に出来ない。

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昼と夜

 久しぶりの投稿である。パソコンをなるべく夜中に開かないようにしてからというもの、ブログが遅々として進まなくなった。なぜ夜中にパソコンを開かないかというと、その理由は簡単で、「ブログ更新は睡眠を妨げる」からである。夜中0時くらいからブログをパチパチ打ち始めると、脳みそがオートマチックに動き出し、あーでもない、こーでもない、そーでもない、と思考は回り続ける。そして、布団に入ってからもその回転は止まることがない。
 夜中のブログ更新は睡眠を犠牲にして成り立つものである。「睡眠を取るかブログ更新を取るか」。ブログを書かないと自分のなかの訴えたいことやおぐし的に重要なことの吐き出し口がないため、ストレスが溜まってしまう。ストレスが溜まると寝られない。寝られないと困るから、吐き出し口としてブログを更新する必要がある。でも、夜にブログを更新しようとすると睡眠が妨げられてしまう…。
 そんな解き難いアポリアを解決する方法に、昼間のブログ更新という選択肢がある。ただ、残念なことに、学校のパソコンの前に座るとどうも「さあ、書くぞ」という気力というか気合が出てこない。真昼間からなぜ気合入れてブログを更新するのか、という疑念が浮かび、自分のタイピングを縛ってしまう。
 「昼に夜中の闇の暗さが理解できるものか」とニーチェはいうが、まさしくその通りである。昼間は啓蒙主義的で理性主義的であり、常に自分という第三者が存在していて、自己の内奥に立ち入ることはできない。文章を書いている自分の姿を遠くから冷静に見ている自分がいると気がついたとき、文章の勢いは消え去ってしまう。そのようにして昼間の文章は駆逐され、夜中へと追いやられていく。
 やはり、ブログは夜中に睡眠を犠牲にすることで書かれるべきものかもしれない。

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砂時計から見る恋愛

 
 画「砂時計」を見た。純愛映画だと思い込んでいたのだが、見てみてビックリ、「砂時計」は、なんとホラー&サイコ映画であった。ただ単に「純愛モノ」として消費してしまうだけではモッタイない作品である。以下、簡単に解説しよう。
 主人公の女の子の杏(夏帆)は、父親の事業の失敗により、母親の故郷である島根の山奥の村に転校してくる。田舎生活にも慣れてきたある日、母親は、娘を残して自殺をしてしまう。「自殺を止められなかったのは自分のせいだ」。この母親の自殺が、娘の杏を絶望の底に突き落とし、以後、精神的なトラウマとしてまとわりついて離れない。
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 人生に必要なのは、他者の支えだ。他者の支えが無くなったとき、人間は不安を感じる。彼女にとっての支えは、彼氏の存在だった。「俺が一生そばにいてやるけ」という男は、しかし、彼女から突然の別れを告げられてしまう。何が彼女をして、男を遠ざけてしまったのだろうか―。男が彼女を支えきれなかったからだ。そのように断じるのは、いささか早計ではないだろうか。
 
 結論から言うと、彼女が求めていたのは、絶望の淵にいる彼女を引き上げてくれる「誰か」ではなかった。彼女にとって必要だったのは、「犠牲者」として「助けられる側」に立つことではなく、むしろ自分が「救済者」として「助ける側」に立つこと、つまり、「必要とされること」だった。そもそも、彼女のトラウマは、「自殺しようとする母親を自分は助けることができなかった」という「無力感」から起因している。彼女のトラウマを解除するためには、その「無力感」を解消する必要があったのである。
 この作品のなかの最も美しいシーンは、二人が大人になって再び出会うシーンだ。浜辺を歩いている男が女に向かって、「今度は、お前が俺を幸せにしてくれないか」と語りかける。この瞬間、彼女は、「支えられる」だけの存在ではなくなった。唯一無二の存在として彼を支える立場にシフトチェンジを果たした。長年のトラウマから開放された彼女は、本当の恋愛へ向けて一歩踏み出すことになるのである。めでたしめでたし。

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追記

ンポジウムでは、いろいろ面白い意見が聞けたと思う。簡単にまとめておこう。

①特に東京都が推進している「加工食品の原料・原産地表示の義務化」について。大多数の消費者は「選択の余地」が増えるから良いと思っているかもしれないが、良いことばかりではない。ゲストの方が言っていたとおり、原産地表示したところで安全にはほとんど寄与しないし、コストが跳ね上がるために、零細の加工業者が無駄に倒産していくか、そうでなければ、さらなる偽装が横行する可能性すらある。邪推であるが、この政策の裏には「中国産外し」という石原氏の陰謀が垣間見える。

②今回の餃子事件によって惹起された「中国産危ない」の大合唱も「その本質」を冷静に振り返ってみれば、ちょっと行き過ぎだということはすぐにわかる。これはシンポジウムでは残念ながら出なかったが、たとえば、日本から中国に輸出している日本産食材の一部に意図的に殺虫剤が混入されていたと仮定しよう。そしてそのとき、中国メディアがすべての日本産の輸入品は危ないと騒ぎ立てて店から撤去し、日本産の輸入にストップを掛けたとしたら、日本人はきっと怒るでしょう。ふざけんな、そんなの頭のおかしい日本人が起こした例外的な事件だ、日本産は基本的に安全であると。

③そもそも「食の安全」云々といいながら、本当のリスクは食品テロには無い(あったとしても今回のケースのようにあまりにも局地的である)。ゲストの方が仰っていたように、これからのシーズン増えていく食中毒にこそリスクがある。よって、毎年4~5万人出てくる食中毒に対して対処する方が絶対に合理的である。これは今回の餃子事件の被害に遭われた10人にはとても言えないことであり、メディアももちろん正面切って言えないことであるが、輸入検疫(水際)の検査強化にお金を掛けるぐらいならば、食中毒をいかに防ぐかという方向に集中的にお金を掛けたほうが良いのではないだろうか。メディアもそっちをアナウンスしたほうがいいのではないだろうか。

④ゲストの一人が次のようなことを言っていた。食料自給率が低いから危ない、何とかしないといけないというが、ここまで来てしまったらもうどうしようもない。平和ボケしてしまった日本人は、本当に食糧危機が来ない限り平和ボケは治らない、と。残念ながらこれが食に携わっている人の本音なのだろう。ちなみに登壇して頂いた3人はすべて自前の畑を持っていると言っていた。リアルである。

お金持ちの人間はこのような問題に関心はあるが、どうにかして解決しようとは思っていない。食糧危機になったとしても、お金を出して買えばいいと思っている。あるいは、もし日本政府によって食糧統制が敷かれたとしても、どっか海外に飛んで逃げればいいと思っている。だから問題は、お金を持ってない都市部の人間なのである(俺とか)。

そういう人間が取るべき選択肢は、だから、いまのうちに富裕層の仲間入りをするべく頑張るとか、農民に友達を作っておくとか、あるいは自分が農地を耕すとかしかないと思う。個人的には、政府の食糧統制のもと、みんなで農地に入って仲良くさつまいもを食べながら牧歌的に暮らすのも悪くないかなと思ったりするけど、たぶん、そんな「牧歌的」にはいかないのだろうなあ。

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シンポジウムおわた

 ンポジウム・食とメディア、無事に終わりました。まず来ていただいた方、本当にありがとうございました。どれほどみなさんのご期待に答えられたのか、正直いって少し心許ないですが、ゲストの発表やパネルディスカッションのなかで、何かひとつでも新しい刺激や新しい知見を発見していただいたのであれば、こちらとしては嬉しい限りであります。
 もちろん、いろいろ反省点はありました。全体的な運営にしても、ゲストの紹介ひとつにしても、もう少し細かいところで配慮があっても良かったと思いますし、映像を流したり、参加者を巻き込んで演出をしたり、もっと早くからプランを考えて動いていれば、工夫できたことはあったと思います。
 特にパネルディスカッション。
 いま振り返って考えれば、なぜ有機農業の話にわざわざ持っていったのかと不思議でしょうがない。笑。あれはあれで良かった面もあったと思いますが、冷静に考えてみると、前の文脈とつながっていないわけで、餃子事件に関連したお話をもっと角度を変えて深く突っ込むべきだったのかなと。
 そもそも、餃子事件報道を検証しつつ、国内農業政策を議論して、日本の技術戦略を考え、最後に消費者のあり方に戻ってくるというプラン自体が無理がありました。もちろん、臨機応変に取捨選択して深く切り込むべきところには切り込めばいいとは思いますが、付け焼刃的な知識しかないうえ、議論の練習などろくにしていない自分にとってはそもそもレベルに達していなかったのかなと。
 といっても、自分のレベルが云々とか気にし始めた時点で、その人の成長はないわけで。とりあえず無理そうでもノリでとりあえずやってみる、その過程で出来るように努力する、その姿勢は大事かなと思います。「今回の成功は、シンポジウムを開催したことだ」とゲストの方に言われましたが、まさにそのとおりで、とりあえず行動に移してやってみると、たとえ失敗しても色んな反省点が見えてくる、それを次に生かせばいいだけだと思います。そもそも失敗しても別に人生にとって何のマイナスもないし。
 なんとも良い経験が出来ました。ご協力くださったみなさん、本当にありがとうございました。

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5/19(月)食とメディア・シンポジウム

 月19日(月)に慶應大学にて、「食のあり方」と「メディア報道のあり方」についてシンポジウムを行います。市民一人一人がひとりの消費者として、どのように日本の食と向き合うべきか、一緒に考えていきたいと思ってます。ぜひぜひお越し下さいませ。
  ☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆
                  「食とメディア・シンポジウム」
                  ~食品偽装・餃子事件から~
          2008年5月19日(月)午後18時30分~20時30分
                 @慶應大学三田キャンパス121教室
  ☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆
 ■ 「食とメディア・シンポジウム」のお知らせ
  止まらない世界の食料争奪戦のさなか、2007年は食品偽装問題、
  そして、1月末には中国冷凍餃子事件が起こりました。
  今回の「餃子事件」を機に、日本人の「食」問題に対する関心も高まっているようです。
  しかしながら、今回の餃子事件に関するメディア報道を振り返って見てみると、
  「海外産は危険」「検査を強化しろ」など一面的な情報が流されることが多かったように思います。
  いま一度立ち止まり、食を巡る問題を冷静に問い直していく必要があるのではないでしょうか。
  このシンポジウムの狙いは、「食のあり方」と「メディア報道のあり方」を問い直すことです。
  一部では、ゲスト3人の方に、それぞれの立場や観点から「食」の問題を語っていただきます。
  二部のパネルディスカッションでは、今後の「食とメディア」がどうあるべきなのか考えていきます。
  ┏━┓━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━……
  ┃1┃パネリストのご紹介
  ┗━┻━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━……
   ●松永和紀 (科学ライター)
    京都大学大学院農学研究科修士課程修了。
    毎日新聞社の記者として10年勤めた後に退職し、フリーの科学ライターに。
    日経BP社のサイト「Food Science」で「松永和紀のアグリ話」を連載中
    著書に「メディア・バイアス あやしい健康情報とニセ科学」(光文社新書)
         「食品報道」のウソを見破る 食卓の安全学」(家の光協会)
   ●後藤正明 (味の素冷凍食品(株)執行役員・品質保証センター長)
     山形大学大学院農学研究科農芸化学修士課程修了
     味の素冷凍食品株式会社入社後、
     技術部、開発研究所、生産本部、マーケティング本部を経て、現職。
   ●山本謙治 (農産物流通・食品コンサルタント)
    慶應義塾大学環境情報学部在学中に、畑サークル「八百藤」を設立。
    同大学院修士課程修了後、(株)野村総合研究所、青果流通の(株)シラフを経て、
    2005年に(株)グッドテーブルズを設立。
    ブログ「やまけんの食い倒れ日記」(http://www.yamaken.org/mt/kuidaore/)
    著書に「実践・農産物トレーサビリティー」(誠文堂新光社)
        「日本の『食』は安すぎる 無添加で日持ちする弁当はあり得ない」(講談社α新書)
  ┏━┓━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━……
  ┃2┃開催概要とプログラム
  ┗━┻━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━……
   【主催】 メディアコミュニケーション研究所・ゼミナール委員会
   【日時】 2008年5月19日(月) 午後18:30~午後20:30
   【会場】 慶應大学・三田キャンパス121教室
   【参加費】 無料
   【対象】 学生、一般人、どなたでも。
   【プログラム内容】
   18:30- ▼第1部「食品偽装・冷凍中国餃子事件から見えてきたもの」 (60分)
        ~ゲスト3人のそれぞれの観点から~
       ・(松永さん)…「マスメディア報道」と「科学」の観点から
       ・(後藤さん)…「大手メーカーの『品質管理』の取り組み」の観点から
       ・(山本さん)…「日本の食は安すぎる(?)」という観点から
   19:40-▼第2部「ゲストによるパネルディスカッション」 (30分~40分)
       ~日本の食とメディア報道の今後のあり方~
       ・学生のプレゼンによる「問題提起」
       ・ゲストによるパネルディスカッション
       ・質疑応答(10分)
  20:30- ▼終了
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     ★事前申し込み不要です。当日は会場まで直接お越し下さい。  
     ★ご不明な点は、気軽にお問い合わせ下さい。  
    ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━  
    ■お問い合わせ   
 
     電子メール gushiken17@hotmail.com 
     *報道関係で参加を希望の方は担当 小串宛にご連絡をお願いいたします
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意気込み

 分の問題意識を、みんなにぶつけてみたい。そう思って取り組み始めた今回のシンポジウム企画。正直いって、こういうことを自分がやるとは思いもしなかった。だって、もし何か伝えたいことがあればブログでも新聞でもいかようにも発信することができるから。
 もしかしたら、ブログや新聞というという間接的なメディアに飽きてきたのかもしれない。人間の深い、心の奥の奥まで届くような、威力のある直球を打ち込んでみたい。今まで以上の、直接的なコミュニケーションを取りたい。人間が人間に感染するような場を作ってみたいと、考えたのかもしれない。
 今回3人のゲストの方をお呼びしたのも、きっと、予定調和なものにはしたくなかったからだろう。僕が生きていてわくわくするのは、未知のものに触れたときだ。知っているお話は聞きたくない。何が起こるか予期できるところには行きたくない。その場に集まったからこそ生まれる「化学反応」を見てみたい。3人だからこそ逆に失敗してしまうかもしれない。でも、上手く行くかわからない失敗するかもしれないからこそ、やってみたくなるし、やってみる価値があるというものだ。
 (そのような「勇気」が出てきたのも、何人かの友人たちが「一緒にやろう」と言ってくれたからである。基本的に一人では人間何もできない。ほんとうに感謝している)
 どうなるかよくわからないイベントに来てくれというのも、よく分からない話であるが、きっと有意義なイベントになる、と思う。なんたって、ゲストの人たちがみんな素晴らしい。こちらの運営さえ失敗しなければ、絶対面白い会になるはずである。これから一週間は頑張って準備したいと思う。
 ぜひぜひ、ブログの読者の方々、お誘いのうえ来てください。

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