ベルリンのとある広場③

 ルリンの空は晴れ渡っていた。高いビルが立ち並んでいるポツダム広場。地図を片手に、立ち止まりながら、その通りを歩いていた。外にはみ出したレストランのテラスでは、ビジネスマンや観光客が昼食をとって寛いでいる。

 ポツダム広場の一角には、ソニーセンターというビルの集合体が顔を覗かせる。富士山をモチーフにして作られたという建物は、ガラス窓が重なり合うようにして空へと伸び上がっている。「富士山」の頂上には、いくばくかの白いデコレーションが「雪」として誂えられている。
 
 華やかなビジネス街の通りを3分くらい真っ直ぐ歩いていくと、右手にある巨大な広場にぶつかる。何台もの観光バスが広場に面して駐車している。バスから降りた観光客たちは、その目の前のものを眺めて、躊躇し、立ち尽くす。彼らの視線の先にあるのは、溢れんばかりに敷き詰められた長方形の箱の物体。数え切れないほどのグレーの色の箱が、1m間隔で広場の隅々にまで立てられている。

 そばにあるBOXへと近づき、触れてみる。コンクリートの表面はさらさらしている。特別に何の説明もない。連なる箱を通り抜けながら、広場の真ん中へと向かう。中心に行けば行くほど地面がうねりを上げて隆起する。それに合わせて、箱は縦長へと伸びていく。

 小さな子供たちは箱を背にして、鬼ごっこやかくれんぼをしている。その隣の男はある箱の上に上ろうと手を伸ばしている。一つ一つは同じようなグレーの箱。だがよく見ると、横に長いもの、縦に伸びているもの、少し曲がった形をしているもの――どこかそれぞれ異なっている。広場の真ん中に到達したとき、僕はすでに巨大なポールに囲まれていた。太陽の光はもはや届かない。気味の悪さを感じつつも、新しい実験的なアートか何かと思い、その場をあとにした。

 ここが、ユダヤ人虐殺のメモリアル広場だと知ったのはすぐ後のことだった。コンクリートの箱は、ユダヤ人に捧げられた記念碑でもあった。「あれが追悼を表す記念碑なのか」。ザクセンハウセン強制収容所を尋ねたあと、その違和感はさらに強くなった。

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 ザクセンハウセンは、ベルリンの中心地から電車で一時間ほどいった郊外の町だ。ここは第二次世界大戦の進展とともに、膨れ上がる強制収容者を処理するために追加的に作られた強制収容所がある。住宅街の目と鼻の先に、ひっそりと地平の果てまで見える、人気のない、静かな空間が広がっている。

 正直にいうと、ここの収容所は退屈に過ぎた。雨に降られながら、広大な敷地を歩き疲れ、冗長で詳しすぎるオーディオの説明にうんざりした。「興味深い」ことなんて、何一つも無かった。そこにあるのは、ただ空白と静けさだけだった。

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 翌日、再び、ユダヤ人のメモリアル広場を訪ねた。

 繁華街のちょうど真ん中、相変わらずの観光バスに観光客で溢れていた。2711本のコンクリートブロックはそこに輝いていた。それはユダヤ人の棺であり、ユダヤ人そのものだ。見る角度や場所で、この棺のブロックの印象はガラリと変わる。なんと躍動感溢れた広場なのだろうか。

 皮肉だったのは、この通りの名前が、「ハンナ・アーレント通り」だったこと。

 彼女の本の代表作である「イェルサレムのアイヒマン」。ユダヤ人の「最終解決」を迅速に行った責任者であるアイヒマンは、どこにでもいる凡庸な人間だった。ナチスの法の下に忠実に従い、より多くのユダヤ人を抹殺した。自分が悪いことをしたとはつゆも思っていない。ただできるだけ「生産的に」その仕事を全うしようとしただけだったのだ。

 ハンナ・アーレントは、このあまりの「悪の陳腐さ」に驚いた。

 そして、アイヒマンに纏わる、つまらない、うんざりする冗長な事実を300ページに渡ってまとめた。調べば調べるほど、つまらない、何のドラマもない人間だった。そこにあるのは、ただの「凡庸な悪」だった。

ぐし について

スウェーデンのウプサラ大学大学院政治行政学修士取得、欧州議会漁業委員会で研修生として勤務後(-2013年3月)、ブリュッセルでEU政策や市場動向などを調査の仕事に従事。2014年11月から慶應大学のEUSI研究員。千葉市まちづくり未来研究員(自転車政策)。NPO Rights副代表理事として若者政策(主に若者参画)の提言や分析を行う。連絡先:gushiken17@hotmail.com
カテゴリー: 旅行(全般), 体験ツアー報告 パーマリンク

ベルリンのとある広場③ への2件のフィードバック

  1. けんじ より:

    ホロコースト記念碑は何年か前にやっと竣工して当時話題になったのを覚えてるよ。建設構想に15年以上かかったり、確か着工しだしたあとも施工関連会社が、ナチス時代のなんか良くない関係の関連会社だった事で工事が中断したり、他の事でもかなりもめごとがあったみたい…。でも一番自分が覚えているのはアイゼンマンっていうかなり有名な建築家が設計したんだけど、この人が脱構築主義建築の建築家だったから『またデザイン先行の実験的モニュメントか』と疑った自分が恥ずかしかった事。
    実は当時かなり考えさせられた記念碑でした。

  2. おぐし より:

    けんじさん
    遅くなってすいません。
    この記念碑の完成までに長い道のりがあったんですね。知りませんでした。何となく違和感を覚えるな、というのがこのモニュメントに対する僕の率直な印象だったのですが、そのアイゼンマンという人の思想やこのモニュメントの着工までの歴史を追ってみると、また印象が変わってくるかもしれません。
    ちなみに、僕は昔、脱構築という概念を生み出したジャックデリダの本をいくつか読んでいたのですが、そのあまりの難解さに「これは言葉遊びではないか」と感じ、ポストモダン思想から急速に興味がなくなってしまいました。脱構築主義の建築も「デザイン遊び」という批判があったと知って、なるほど、と思いました。ただ、アイゼンマンがその批判を受け止め乗り越えるように、このモニュメントを作ったとしたら、それはまた興味深いですね。

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