「ともかく、ぼくがいいたいのは、この世の中には、ひとのしあわせのことを考えてくれると称して、忠告を押し売りする人が多すぎはしないかということ。忠告できるのは、その人をほんとに愛しているといえるものだけだと、ぼくは思う。自分のすべてを投げ出してもいい、喜びも悲しみもわかちあおうと思っている人間だけが、相手の生き方に干渉する権利があると思うんだ」。
なるほど、自分が持っている物差しを、他の人にも適用しようとすることはよくある。僕なんてまさにそのタイプの押し付け人間である。ただ、自分の価値観を押し付けることは必ずしも悪いことではないと思っている。そもそも僕は価値観を押し付けるのが好きであり、かつ価値観を押し付けられるのが好きな人間である。価値観を押し付けようとしてくる人間に対しては、押し付けるだけの価値観がこの人にはあるんだ、と僕はあえて解釈することにしている。
もっとも、これは僕の個人的な趣向である。たぶん普通の人は自分の生き方に干渉されるのが嫌いだ。ちょっと否定するだけで、つんとしてしまう。大きく忠告すると、もう『KY扱い』されてしまう。そうしてスカスカの、表面を取り繕っただけの人間関係だけが残ってしまう。おそらく、なだいなだのいう時代と今の現代は、別の世界である。あの時代は、村上春樹に言わせれば、「誰もが本を貸したがる時代」だった。言いか悪いか別として、そういう「価値観の押し付け合い」の時代だった。いまは逆に、誰も何も言わなくなった。「この人、このままで大丈夫かな」と、余計なお世話とわかりつつも、心配しちゃうような人(俺です)が山ほどいるなかで、「その生き方はどうも視野が狭すぎるのでは…」とはっきりと言う人が、絶滅危惧種並に激減してしまったのである。まあガツンというといっても、「自分のすべてを投げ出してでも、喜びも悲しみもわかちあおう」という「愛の覚悟」があるわけでもないから、「さあいうぞ」という気持ちにならないだけなのであるが。
「恋ってのは、たいがいどちらかに中心がかたよっているもんだよ。つまり、多かれ少なかれ、どちらかが片思い的でない恋はないってことさ。そして、ぼくの場合、たいがい、ぼくの方に、どういうわけかかたよっているんだな。そういうわけで、恋というものは、つねにしあわせなものじゃなかった。…ぼくは、恋の、その心をかむふたしかさこそが、今の今、ぼくの生きつつある瞬間を意識させるものだと知った。だから、しあわせを求めて恋をするのではなく、しあわせな恋はないと知りつつ、恋はすべきだと思ったんだ。…しあわせなど考えず、ただひたすらに恋をする。恋にはそれだけの価値がある。僕は、そう信じたいんだよ。わかるかなあ。」
「恋ってのは、たいがいどちらかに中心がかたよっているもんだよ」。この点については僕も考えを同じくする。どちらかがちょっと盛り上がり過ぎていて、どちらかがちょっと冷めている、そんなふたしかなものが恋であり、ふたしかだからこそ、恋する意味がある。逆にいえば、ふたしかでなければ、恋する意味などないのである。これはつまりどういうことかというと、安定した恋をしている人はすべからく別れるがよろしいということである(わぉ!)。振り子の静止した恋など恋ではない。今すぐにでも電話をして「あなたとはもう終わりよ」と最後通牒を高らかと突きつけるがよろしい。きっと楽しいぞ、なんて。
…こんな馬鹿なことを書いているとまた誰かに怒られそうであるが、必ずしもふざけているだけではない。たとえば、同じ精神科医の(故)河合隼男も、似たようなことを言っていたりする。
「ぼくもいま、ある原稿で夫婦のことを書いているのですが、愛し合っているふたりが結婚したら幸福になるという、そんなばかな話はない。そんなことを思って結婚するから憂鬱になるんですね。なんのために結婚するのかといったら、「苦しむ」ために、「井戸掘り」をするためなんだ、というのが僕の結論なのです」
精神科医の面々は「苦しみ」が好きなようである。キーワードは「しあわせ」ではなく、「くるしみ」である。「幸福について語られることは、すぐ聞きあきる。しかし不幸については、語って語りあきるものはいないし、他人の不幸の話を聞いて聞きあきるものはいない」とも、なだいなだは言っている。
ここまで考えてみて、僕は、「そこそこ」生きるよりも、たくさん「苦しんで」生きたほうがいいような気持ちになってきた。しあわせよりも苦しみの方が、「語るに足る」人生になりそうな予感がする。しかも最近はまったく不平不満のない完璧過ぎる生活を送っていたので、そろそろ苦しみたいなと思っていたところなのである。よし、今日から苦しんでいきることに決めた。ものすごく中心がかたむいている恋をして、井戸掘りもしよう。なんだか人生は楽しそうである。
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メタ情報
ひさしぶりにオグシのわけのわからん文章を読んだ気がするわ笑。
最近のオグシのブログはいい感じに、悪く言えば、なんとなく小奇麗にまとまった感があって、実はおもしろくなかったのだよ。1年生の頃より論理的で説得力はすごくあるんじゃけど、昔の君の「ぶっとび感」が欠けとったような感じで。。笑。なんというか思索に「苦しんで」いる感じの文章じゃなかった。苦しみもがいたあげく、最後に出てくるオグシのぶっとんだ文章を僕はいつも楽しみにしている。
「井戸堀り」って何の比喩やねんー。ちょっと気になった。
ちょっと苦しんでるくらいが幸せってことかもしれんね。ということは完璧に幸せになってしまうことはすなわち不幸せになるってことであって、ということは幸せってなんなのかしらと頭を捻らずにはいられないのだけれど、結局それをうんうん唸って考え続けていくのが何となく楽しくて、そんならこれはこれでいいんじゃないか、っていうことでしょうかね。人間は我儘であやふやで、それでいて少しだけ素敵だなぁ、と最近よく思うのです。が、せめてもう少しは相対的に幸せになりたいなぁ、なんて枕をぬらしたりもするのです。ぐずぐず。
ちゃんgす氏
ちゃんgすくん、かっこつけて体裁つけて書くのは当然だよ。だってかっこつけるために書いているんだもん、このブログ。いかに知的で魅力的に映るかしか考えていないよ。笑。(実態はぜんぜん知的じゃないけど)。
小奇麗なのは、それとプラスして、ブログの性質が変わったこともあるかもね。むかしは、それこそ「自己療養のための試み」として書いていたところも無きにしも有らずだった。別に汚かろうと読み辛かろうと、そんなの関係ねーだったわけだ。(だって自分のために書いていたんだから)。そして、今にして思えば、自分のために書く、ということと、他人のために書くというのは違うんだよ。他人のために書いていることが伝わるのはあたりまえ。でも自分のために書いている意味不明なことが、他の人にも伝わるときは、そっちの方がインパクトが強いんじゃないか。なんかうまくいえないけど。たぶん、井戸掘りもそんな感じのことじゃないかね。笑。
えふたか氏
しあわせが実体的に存在すると考えること自体がボタンのかけ違いかもね。たとえば、なだいなだは言っている。「幸福というものはなく、なにを幸福と見るか、その見方だけがあるんで、つまりは人間の内面の問題さ」って。
ま、こういってしまったら最後、宗教に走るしかないないと思うけど笑。
>つまりは人間の内面の問題さ
身も蓋もないやろ、それ言っちゃぁ笑
そうかー。オグシの言うとおりかもしれんわー。自分のためじゃなく、他人のために書く文章か。確かにブログの性質がアメブロのときと全然違うもんね。自分のなかに目指したい文章があるのは素敵です。そうかー。なるほど。じゃあおれの前のコメントは的外れということになるね。申し訳ないっす。
えふたか。
そうさ、これをいっちゃ身も蓋もないんだ。
個人としての姿勢としては評価できるけど、
これをソーシャルデザインの観点からいうと、アブナイ気がする。
「すべて個人が決めて個人が責任をとるのせいだ」ってなりそうでね。
だから僕は、「あえて」、関与していく必要があると思うのである。
愛を持って。笑。
ちゃんす
まあ他人のためと称して、結局は自分のためなんだけど。笑。