2007年に読んだ本の紹介をし忘れていたので、遅ればせながら紹介したい。
①内田樹『下流志向』
お馴染みのわが師、タツル大先生。数多ある教育や労働に関する評論のなかでも、先生の卓見がもっとも凝縮されまとまっている良本である。いわゆる『学びからの逃走』や『労働からの逃走』という現象は、資本主義の浸透、そして『経済合理性』と『等価交換』(の概念)の浸透によって牽引されていると先生は語る。
これだけだと単に苅谷剛彦や佐藤学らの研究をパクっているだけであるが、オリジナルの知見として先生は、『労働主体』と『消費主体』というキーワードを盛り込むことで、現代の若者が『労働主体』としてより先に、『消費社会』として立ち上がっていることを指摘する。つまり、学びや労働は、本質的に『空間』の二次元モデルではなく、『時間』の三次元モデルとして把握されるべきものであるにも関わらず、『消費主体』として先に立ち上がってきた子供たちは、『経済合理性』に裏打ちされた『等価交換』としてしか物事を捉えられなくなっているのである。
上記の精緻な分析とともに、終章における先生に対する質疑応答はお勧めである。労働とは何か、自分とは何か、学びとは何か―このような哲学的問題について『交換』という文化人類学的な叡智を参照しながら、説得力のある知見を提供してくれる。特に上記の問題に頭を巡らせている就職活動生には是非とも読んで頂きたい一冊である。
②広田照幸『日本のしつけは衰退したか』
「家庭の教育がちゃんとしていないせいで、子供がダメになった(家庭の教育力の低下)」――このような感情的で根拠のない物言いが政治の世界(だけでなくメディアの言説で)で蔓延している。実際、そのような現状認識に押されるかたちで06年、改正教育基本法には「家庭教育の重要性」が条文として盛り込まれることになった。
広田先生は、「家庭の教育力の低下」という現状認識自体が間違っていると主張する。彼は家庭、学校、地域という三つのファクターに注目しながら、歴史的に、それぞれの「教育力」の発展と相互の連関関係を分析した。そこで明らかになったのは、家庭の教育力(ここでは両親の子供を教育する意思)は時代を経るごとに格段に高まっているという事実である。
そもそも、明治期まで、ほとんどの家庭では子供を「労働力」として見ていた。「良い子」に育て上げようという「意思」を持っていた家庭はほんの上流階層クラスに限定される。たいていの子供は外に放り出されていたのである。そして、そこで機能していたのは受け皿としての地域社会であり、地域社会が子供の教育を担っていたのである。
このように家庭よりも『地域社会』が子供の教育的役割を担っていた。だが徐々に教育の主な担い手が移り変わっていく。いわゆる学校制度が出来上がってきたのである。そして、家庭は学校という権威的存在に教育を丸投げするようになり、教育における学校の占める役割が増大していく。学校の権威が戦前戦後を通して頂点に立つのである。
しかしまたもや変転が起こる。60年代70年代を通じて学校的権威が低下していくのである。それまで丸投げだった家庭が、学校の教育に対して『口出し』をするようになり、積極的に子供の教育へと関わり始める。家庭の教育する『意思』がスイッチが入ったかのように亢進し出すのである。70年代の社会的リベラルからの「学校」の「閉鎖性」批判を皮切りにして、あるいは80年代の経済的リベラルの「競争原理(教育の自由化)」の導入議論と相俟って、「学校制度なるもの」への批判が高まる。これが歴史的な教育の基本構図である。
広田先生が本書を通して怒っているのは、家庭の教育する「意志」は一貫して増え続けているにも関わらず、そのような事実を無視する形で、政府が、家庭の教育の重要性を必要以上に騒ぎ立てていることである。つまり、家庭が果たすべき教育の役割を過度に「高く設定」することで、そこからはみ出してしまう家庭を「ダメ家庭」としてラベリングすることになり、その結果、ラべリングの暴発として、たとえば、児童虐待などの問題を引き起こすことに繋がりかねない。しかし、これらの潜在的な問題は、家庭教育の重要性の裏返しとしての「家庭の自己責任」という文脈を隠れ蓑にして、政治的権力性は隠蔽されてしまうのである。
③手嶋龍一『外交敗戦』
④伊勢崎賢治『武装解除』
僕が国際政治を勉強しようと思ったきっかけはズバリ『国際貢献』とそれに伴う『9条』の問題をどのように処理すればいいのか考えざるを得なくなったからだ。日本のことばかりしか考えずに、あるいは体外的なことしか考慮せずに、上記のセンシティブな問題は語ることができない。
手嶋龍一の『外交敗戦』は、日本の国内を二分した、湾岸戦争における『国際貢献』を考えるうえでの必読書である。「国際貢献」は、国内問題と対外問題とをどのように帳尻合わせるかが重要であり、国内だけを見ても不十分だし、対外だけを見てもダメである。
『武装解除』の伊勢崎賢治は、国連の平和維持活動や暫定自治政府の最前線で指揮を取ってきた紛争屋である。彼は、現在の日本の国際貢献論は、全く現場が見えていないという。自衛隊(軍事力)を派遣するかしないのかという点のみが「国際貢献」として語られるが、では現場は一体どのようになっていて、何を必要としているのかが見えてこない。
現場の視点とともに、彼は現場人として「軍事的貢献」をどのように考えればいいのかという政治的視点まで踏み込んで考察している。単なる派遣反対でもなく派遣賛成でもない。まず現地の現状認識、を徹底的に行った上で「日本の国際貢献」を考えるという姿勢の重要性が身に染みる。
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