『教育改革とジャーナリズム』

 今年、大石ゼミの、僕の班のテーマは、「教育改革とジャーナリズム」だった。
 6月から、これといった方向や指針も見えないまま、手探りでとにかく文献を読み進めた。当初、箸にも棒にも掛からぬ文献とそうでない文献の区別もつかないくらいだったが、手当たり次第に当たっていくうち、いくつかの名著に出会うことができた。教育社会学者の広田照幸氏の著書に出会えたことが、今回の研究における最大の成功だったと思っている。いかに良い本にいかに早く出会えるか(先行研究のマッピング)、が研究において何より大事なことだと痛感した次第である。
 ちなみに広田先生には、日大にて直接お話しを伺って忌憚なきアドバイスをもらった。彼は、苅谷剛彦先生と並んで信頼できる教育学者の一人である。広田先生の「愛国心のゆくえ」「教育言説の歴史社会学」「日本人のしつけは衰退したか」「教育不信と教育依存の時代」などの著作は、もし機会があれば、是非みなさんにも読んで頂きたいと思う。
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 以下、「(公)教育改革とジャーナリズム」について簡単に説明しよう。
 教育改革が始まったのは1984年、中曽根内閣における「臨時教育審議会」からだ。以来、20年以上にわたって教育を良くしよう改善しようと「改革」が進められてきた。しかしながら、結果はといえば、全く良くなる気配は見えない(らしい)。2006年には、政府(安倍)は、「教育再生会議」と銘打った諮問会議を招集し、メディアも「公教育は瀕死にある」と、さらなる改革を訴え続けてきた。
 しかし、政府の改革には抜け落ちている議論があった。
 それは、「おカネ」であり、「教育予算」である。あまり指摘されないが、日本の教育予算は世界レベルからして最低水準である――家庭の教育支出は大きい、ひとクラス当たりの教員の数は少ない、教員の仕事はより煩雑になり、教材研究をする時間的ゆとりもない。
 まず何よりも改革すべきは、これら根っこの「教育環境の整備」だった。にも関わらず、その部分にはあまり触れらることはなかった。教育現場には「ゆとり教育」をはじめとして、総合的な学習時間や、道徳教育、奉仕、キャリア教育、あらゆるものが要求されてきた。それに見合うだけの条件整備(予算措置)を欠いたまま、あれもこれもという形で、「現場が頑張れ」と押し付けられてきたのである。(こういう「おカネをかけない」教育改革は、イギリスのサッチャリズムを模範としていた。いわゆる競争原理を入れて、自発的に教育を改善していくという新自由主義改革が基調にあったが、ここでは割愛する)
 現場への一律「押し付け」は今も続いている。
 たとえば、英語学習がその典型的な例である。次の新学習指導要領の改訂では、小学校段階での英語学習の導入が決まったが、果たして英語を教えることができる先生がどれほどいるのだろうか。都市部ならばいざ知らず、地方でそういう人材を確保することは容易なことではない。武道についても同じである。教育基本法の改正(伝統の涵養)を受けて、体育で武道を必修化することが決まったが、いまどき武道の心得のある先生など皆無に近い。まずもって進めるべきなのは、現場が教育効果を最大化できるような環境作りであり、しかるべき条件整備ではないか。
 
 新聞ジャーナリズムは、この点(教育環境の整備)については深く切り込んでこなかった。僕らは怒りに近いものを感じながら、それを論文の中で論じてきた。そしてどうしてそういう事態に陥ったのかについて既存の教育社会学を引用しながら、それをジャーナリズム論に引き付けて考察を行った。
 (論文とは構成が異なるが)、大きな流れに沿って結論を述べていきたい。
 これまで教育を語る際には、「教育学」的な用語が好まれて使用されてきた(というか今もそうだ)。つまり、教育は聖域であり、政治経済とは異なる自立した領域であるかのように扱われてきた。そして実際、このような認識が戦後から教育界を支配してきた。日教組は、学校を聖域として位置づけ、政治や経済と距離を置いて捉えたうえで、一貫して政治介入や競争原理の導入を拒絶してきた。
 だが80年代、中曽根内閣における臨教審以後は少しずつ「教育の自由化」が叫ばれはじめ、学校を開き、競争原理が導入されていくことになる。そして90年代を通して、政府主導による構造的な変革が水面下で進んでいく。
 
 その流れを一気に加速させたのが、2001年に誕生した小泉政権だった。「聖域なき構造改革」を掲げた小泉政権は、教育分野も例外ではないとして公教育にも歳出削減を求めて、新自由主義を推し進めた。大きなものとしては「構造改革特区」という制度の導入があるが、論文の中では具体的に2つ、①三位一体改革における「義務教育費国庫負担金の削減」と、②行政改革推進法による「公務員(教員)の純減」の例を挙げておいた。
 ここで、公教育の土台が根っ子から崩された。小泉政権は、競争原理を導入し、徹底的に「格差」をつける学校構造へと公教育の構造を変えた。新聞ジャーナリズムは、これらの改革が、教育の改善に資するのかどうかの議論を置き去りにし、行財政改革の文脈としてしか捕らえなかった(朝日新聞は特に構造改革推進に賛成だったがゆえに、教育論がすっぽり抜け落ちた)。
 僕らが批判したかったのは、まさにこの点である。
 つまり、「政治を見て教育を見ず、教育を見て政治を見ず」という状況である。教育と政治は不即不離であるにも関わらず、ジャーナリズムは、(あたかも)この二つを別個のものとして扱ってきた。教育は、政治経済とは独立したものとして「教育学的」に語られ、他方で、構造改革が叫ばれると、教育問題はあくまで「行財政改革」の文脈でしか語られない。教育学的アプローチだけでもダメで、政治経済アプローチだけでも不十分である。まず、政治経済的に「学校構造」を直視したうえで、教育論を位置づけていく。このような認識を徹底させる必要があるだろう。
 具体的にいえば、「ミクロ」に集中し過ぎて「マクロ」が見えなくなるジャーナリズムの姿が指摘できる。ジャーナリズムの記事が「学校の教室」から出発されることが多いが、それゆえ、そこに描かれるのは、先生の授業の創意工夫する姿であり、輝く子供の笑顔である。煎じ詰めれば、学校の創意工夫という「運用」の問題にすべてが収斂してしまい、マクロ構造的な改善点が見えなくなっている。教室の「現場」を報道することはもちろん大切であるが、その裏にあるマクロ的な構造への指摘を忘れてはなるまい。教育とは、すなわち、予算配分(政治経済)の問題であるのだから。
 (結局、教育改革で最も重要だったはずの「教育(現場)環境の整備」に目が行かなかったのも、上記のような要因が大きかったといえる。その他では、「教育基本法改正」の不毛な「空中戦」議論があったことも指摘しておかねばならない)。

ぐし について

スウェーデンのウプサラ大学大学院政治行政学修士取得、欧州議会漁業委員会で研修生として勤務後(-2013年3月)、ブリュッセルでEU政策や市場動向などを調査の仕事に従事。2014年11月から慶應大学のEUSI研究員。千葉市まちづくり未来研究員(自転車政策)。NPO Rights副代表理事として若者政策(主に若者参画)の提言や分析を行う。連絡先:gushiken17@hotmail.com
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『教育改革とジャーナリズム』 への3件のフィードバック

  1. 楽天でホテル旅館トラベル予約

    時事ネタ、旅行ネタ、エッセイ探しのついでにじっくり読ませてもらいました。

  2. Maki より:

    初めまして。
    私は 今 小学校の教員の免許を取得中で日本にいますが
    スウェーデンにも数年滞在していました。
    異国に住むと 今まで 否定的に見えていた日本の教育の素晴らしい
    部分がたくさん見えてきますよ。そして同時に、スウェーデンの社会民主国家の欠点もたくさん見えてきます。
    そういったものを いろいろ見るためにも
    留学はとてもいい経験になると思いますよ。
    楽しんできてくださいね!!

  3. おぐし より:

    Makiさん
    こんにちは。わざわざ古い文章にコメントいだだきありがとうございます。僕の教育に対する主張は基本的にこの論文のときとほとんど変わっていなくて、日本の教育はそれほど悪いものではないということです。学歴社会(だと信じられていること)とお受験のための塾通いという構造的な問題を抜きにすれば、日本のパブリックの学校の質はそれ自体とっても高いと思っています。行政はあまり口を出さずに現場をもっと応援する政策を行って欲しいですね。
    スウェーデンの教育も今までの平等主義的なものからかなり変わってきましたね。今年の1月には高校の一部にエリートコースを作ることも発表されましたし。PISAテストの成績も良くないですし。社会民主党が政権をとればまたゆり戻されるかとは思いますが。

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