希望は戦争か、について

 田先生が格差社会について文章を書いている。
 ☆格差社会って何だろう
 先生は、格差社会の根本的な問題は、「お金によってすべての価値が決まる」という拝金主義的なイデオロギーが社会の隅々にまで行き渡ってしまったことであると指摘する。「お金があれば問題は何でも解決する」というお金の全能感が人々の頭に染み付いてしまったせいで、お金以外の社会的価値の存在が見えなくなり、人々もお金以外の価値によって「人」を見ることが少なくなった、と。
 人々が生きづらくなったのは、(ひとつには)お金という一元的な尺度によって人間的社会的な価値が規定されるようになったからである。たとえば、(特に下層の人々は)お金が無ければ、それ以外の良い部分などないのと同じで、生きるうえでの自己の存在価値の承認が受けられず、自分が何のために生きているのか意義を見出せなくなくなったのだ。
 そのうえで、内田先生は次のように述べる。
 

私自身は人間の社会的価値を考量するときに、その人の年収を基準にとる習慣がない。どれくらい器量が大きいか、どれくらい胆力があるか、どれくらい気づかいが細やかか、どれくらい想像力が豊かか、どれくらい批評性があるか、どれくらい響きのよい声で話すか、どれくらい身体の動きがなめらかか・・・そういった無数の基準にもとづいて、私は人間を「格づけ」している。 私がご友誼をたまわっている知友の中には資産数億の人から年収数十万の人までいるが、私が彼らの人間的価値を評価するときに、年収を勘定に入れたことは一度もない。私にとって重要なのは、私が彼らから「何を学ぶことができるか」だけだからである。

 

私は長い間同年齢の人々の平均年収のはるか下、底辺近い「貧困」のうちにあった。だが、私はいつでもたいへん陽気に過ごしていた。ご飯を食べる金がないときも、家賃を払う金がないときも、私はつねにお気楽な人間であり、にこにこ笑って本を読んだり、音楽を聴いたり、麻雀をしたりしていた。たいていそのうち誰かが心配して、私のために手近なバイトを探して来てくれたので、間一髪のところを何度もしのぐことができたのである。私がつねに変わらず陽気でいられたのは、年収なんか人間の価値とはぜんぜん関係ないということを深く、魂の底から、「確信」していたからである

 年収と人間の価値の関係なさを「魂の底」から「確信」して声高に叫ぶ人はあまりいない。僕自身もそのような考えを突き通そうと「魂の底」から思っている次第である。
 × × × × × × × × ×
 しかしながら最近、少し不安になる。いまの日本では、このような意見表明は現実変革には何の有効性を持たない、それどころか現実を捉えていない空虚なものではないかと。
 というのは、先に述べた『お金がなくても「他者の尊敬」があれば陽気に生きていける』という見解は、その前提として『「他者の尊敬」が得られるほどに、知的文化水準が高くてコミュニケーション能力がある主体』を想定しているからだ。たしかに『お金は無いけど「社会的承認」が得られるような人間』はおそらく問題はない。だが実際問題としてそのような人間は稀有である。お金がなければ文化水準が低くならざるをえないからだ。そうだから、もっとも危険なのは、生活苦であるだけでなく、精神苦でもある、『お金も無い、「社会的承認」も受けることができない人間』である。
 たとえば、今年「論座」への投稿で話題になっている、「赤木論文」。
 ☆「丸山眞男」をひっぱたきたい 31歳フリーター。希望は、戦争。
 

私たちだって右肩上がりの時代ならば「今はフリーターでも、いつか正社員になって妻や子どもを養う」という夢ぐらいは持てたのかもしれない。だが、給料が増えず、平和なままの流動性なき今の日本では、我々はいつまでたっても貧困から抜け出すことはできない。我々が低賃金労働者として社会に放り出されてから、もう10年以上たった。それなのに社会は我々に何も救いの手を差し出さないどころか、GDPを押し下げるだの、やる気がないだのと、罵倒を続けている。平和が続けばこのような不平等が一生続くのだ。そうした閉塞状態を打破し、流動性を生み出してくれるかもしれない何か――。その可能性のひとつが、戦争である

 生きるのにギリギリの収入しか貰えず、社会的な地位や承認も得られないフリーター。――既に失うものも守るべきものも何もない。そんな人間の尊厳を踏みにじられたような、生きていても意味のない生活が続くのならば、いっそのこと戦争が起きてしまったほうがいいという刺激的な意見表明である。
 そう、戦争が起きれば、誰もが平等に徴兵される。そこでは誰もが平等に犠牲者となりえる。そして戦争が終わったあとは、社会の固定的な階層秩序がガチャガチャポンされ、いままでの席を占めていた安定労働者の枠がフリーターに明け渡される可能性が高まる。戦争のカタストロフィーはたしかに凄惨であり非人間的である。だがそれは万人に平等の悲劇であり、社会の閉鎖性を打破するには仕方のないことだと彼はいう。
……これを読んだときはさすがに衝撃を受けた。戦争が希望っていうことに。生きていても死んでも別に大差はないと言い切ることに。
 もはや日本の格差など世界の格差に比べたらたいしたことない、などと呑気なことを言っている場合ではないかもしれない。下層の人々は自分が生きるか死ぬかで生活しているという。そして社会的尊敬も得られない中では生きている意味がない、だから、自分たちだけが苦渋を舐めるというのであれば、いっそのことみんな平等に犠牲になる戦争が起こったほうがいいという。
 このままでは、自発的意思のもとに戦争を要求する人たちがどっと出てくるかもしれない。この小論を読むかぎり、それが切実なまでに読み取れる。ではどうすればいいのか。富の再配分を強化すればいいのか。でもそれでは根本的な解決にならない。労働市場をより流動化すればいいのか。いやそれも違うだろ。使えない既得権益にしがみ付いている輩を排除すればいいのか。それはそうだ。でもどうやって実現するんだ? 戦争か?

ぐし について

スウェーデンのウプサラ大学大学院政治行政学修士取得、欧州議会漁業委員会で研修生として勤務後(-2013年3月)、ブリュッセルでEU政策や市場動向などを調査の仕事に従事。2014年11月から慶應大学のEUSI研究員。千葉市まちづくり未来研究員(自転車政策)。NPO Rights副代表理事として若者政策(主に若者参画)の提言や分析を行う。連絡先:gushiken17@hotmail.com
カテゴリー: つぶやき・殴り書き パーマリンク

希望は戦争か、について への4件のフィードバック

  1. coldtopic より:

    格差社会って懐古趣味が根底にあるような気がする。「昔は、貧乏人でも、勉強して頑張れば、出世できた」ってね。「菊次郎とさき」の世界観。教育が変ったことが一番の問題じゃないんかね。
    ゴーマン言われるのを覚悟で書くが、こちとらわざわざ東京まで来て勉強してるんだ(ということにして)、教育援助だと思って金をくれ。税金で家賃だしてくれ。バイトか派遣しかしない、出来ないような輩は地方に送り返せ。どうせ国際競争力の足しにもならんだろ。(文化産業にかかわる人間は保護する必要があるだろうけどね フランスみたいに)居酒屋の店員だのコンビニの店員だのどんどん減ればいいよ。みんな自炊して宅飲みすりゃいいんだ。健康的で文化的だ。
    田舎には仕事が無いとかなんとか言うけどさ、やっぱ派遣業に規制をかけるべきだと思うよやっぱ。無理して仕事やってる奴を使って成り立つ産業なんておかしい。

  2. えふたか より:

    万人に平等の悲劇を―か。
    確かに。変にポジティブな意見やべとつくような平和主義論よりも説得力、というか沁みこんでくるものがある気がする。
    平等を実現するためには「悲劇」を起こさないと無理だ、なんてなんだか悲しいけどね。悲しがってる場合でもないのかもしれない。
    でもやっぱり戦争がもたらすであろう「悲劇」は、嫌だ。家族が離散する、友達が死ぬ、街が壊れる、人を壊す、自分が自分じゃなくなる。そういうのは恐い。じゃぁ、どうすればいいんだよ、と言われたら、やっぱり僕には何にも分からないのだけれど。
    それともうすぐカナダだよね?気をつけて行ってらっしゃい!帰ってきたらまた話し聞かせてくれ!

  3. ぐっしー より:

    coldtopic
     
    >無理して仕事やってる奴を使って成り立つ産業なんておかしい。
     まあ歴史的にも奴隷を使っていたことを考えれば、いまのフリーターや請負の人々はそういう部類に入るんだろうね。
     
     もし、日本がこのまま経済成長を望むのであれば、そういう仕事は必ず誰かが引き受けなければならなくなる。それが日本人のフリーターでなければ、外国の移民に取って変わるだけでしょう。
     といっても、現時点でも日本は海外のプラントでは現地労働者を使役しているけどね。

  4. ぐっしー より:

    えふたか
    >万人に平等の悲劇を――。
     これは説得力ある…それこそどうしようもないくらいに。だけど、その最貧困者たちが、実際に戦争を起こすにまで影響力を持ちえるのかと言えばそれは必ずしもそうではない。というか、なかなか難しいと俺は思う。
     現に、この論文の火付け役の赤木氏だって、既に社会に有名な論客として認知されたわけだから、まだお金は少ないかもしれないけど、社会的承認を受けられるくらいの位置にあるということになる(そしてこれからも彼には活躍の機会が用意されているわけだ)。そう、ある意味では守るべきものが彼には出来てしまったことになる。そして論理的に考えると、失うものが出来てしまった時点で、戦争は彼にとってのマイナスのものとなるはずだ。
     彼はブログの中で、必死になって、最貧労働者の代表として彼らの権利について訴えている。文化的水準の高い人々には、文化的水準が高いがゆえに、彼らの現状をきちんと認識できていないと痛烈に批判の刃を向ける。
     だがそういう批判の仕方をずっと続けていると、彼自身にもその批判が帰ってくることになる。だって、社会に対して何かを言える回路・チャンネルを持っている時点で、彼はすでに弱者とはいえない。「弱者」の位置から、強者を非難するという論法が通用しなくなるからだ。それは労働組合が、弱者の味方の振りをしている(が実は自分たちの既得権益を守っているだけ)のと同じであろう。
     じゃあ結局、戦争は起こらない。だから良いやとはいえない。何より彼らの存在を放置していて倫理的に許されるかという問題と、今後にかけて格差が拡大し、最貧困者の数が増大したときに果たしてどうなるのかという問題があるからだ。
     まあこれは非常に暗く先が見えない問題なので、また考えていくしかないなと思う。。。。

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