ホームレス問題を考える③

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 ームレス問題を論じるに当たって主に二つのことを述べたいと思う。一つはホームレスの数を巡る問題について。もう一つは公共性を巡る問題についてである。
 
 ホームレスの出現は、基本的に、社会(問題)現象の先鋭化した結果だ。借金が増えすぎて返せない。働いても生きる希望がない。働きたくても働けない。そういう状況の中で、彼らは公園や駅に逃げ込み、そこで生活を始めるのである。僕は彼らが出現してしまうのはある意味で仕方のないことであると思っている。意欲がないとか気合がないという問題もあるかもしれないが、どの社会システムにも一定数出てきてしまう存在ではないかと自分としては捉えている。
 問題はホームレスの、その「一定数」をどのように定めるか、どこまでが「仕方がない」線で、どこまでが「許されない」線なのかを決めることである。これは難しいが、極めてクリティカルな問題だ。
 たとえば、フリーターの問題にもこれは当てはまる。非正規雇用で適当にブラブラ生きているフリーターが増えると社会が不安定で危険になると言われるが、現実問題として、彼らは常に一定数の割合で企業から必要とされている。むしろ現在、フリーターは足りていないし、企業はもっともっと非正規雇用の人材を欲しているのである。そう、フリーターは『一定数』必要とされている。では、その一定数は一体どこで線引きを計るのであろうか。  
 フリーターは言うまでもなく、生活保護予備軍かつホームレス予備軍である。企業は利用しやすい労働力を増やしたいと思っているだろうが、それを推し進めすぎると社会が不安定になってしまう。ホームレス同様に、フリーターもどの線までが許容できて、どの線からが危険水域なのか。これを統計的に実証していかないと今後の政策デザインは描きにくいと思う。(多分、ホームレスの統計は、市町村単位かある種のNGOがやっていると思うけど、僕も時間と機会があったら一緒に調べてみたい)。
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 さて、本題は次である。
 公園の中を観察したり、ホームレスから聞いたりして気がついた。ホームレスは、『社会(共同体)から排除された(あるいは逃亡した)存在でありながら、また公園内でも共同体を構築している』ことを。やはり、「一人では生きてはいけない」ということなのだろうか、自分のテリトリーを確保し、公園内でネットワークを作り、食べ物を与えたりもらったりして相互扶助の下で生活している。驚いたことに、ホームレスたちは、『緩やかな連帯』として、『排除された公空間内で共同体を作っていた』のである。
 さらに問題なのが、そのホームレスの中においても、『緩やかな連帯』に「順応できる人間」と「順応できない人間」が存在することである。後者は排除された中でさらに排除されるという、生きる上では最悪の環境に置かれている。例えば、公園共同体の中でも、騙しあいや窃盗などが頻繁に行われている。Tさんが、「ほんの10分、テントを離れただけでしょうゆが盗まれた。今は、あまり出歩くことが出来ない」と漏らしていたように、一方ではブルーシート公園共同体があるが、他方では各々は孤立し分断されていて、同一集団の中でも「顔」の見えないホームレスが存在するというのだ。
 
 近年、駅や公園内からホームレスを追い出すという運動が強くなっている。この排除の背景には、異質な他者に対する不寛容もあると思う。「どうして俺の稼いだ金を奴等に使わなければならないんだ」という見も蓋もないコメントから明らかなように自分は自分、他人は他人という考えが支配的になってきたことも関係があるだろう。もちろんその他には、ホームレスの数の増加やマナーの悪化などがあるし、自立支援の運動――その公園共同体を一旦、追い出してしまえば依存から自立へと向かわせる契機となるだろう――も排除の背景の一つにあると思われる。
 
 実際、大阪では機動隊が、ブルーシートを破壊してホームレスを追い出している。だがもちろん単に共同体を消滅させ、ホームレスを追い出せば自立に繋がるという短絡的な問題でもない。むしろ、ブルーシート共同体を破壊することで、社会の問題をより覆い隠すという種類の厄介な問題も潜んでいるのである。ホームレスの存在は言うまでもなく社会にとって良いものではないが、彼らが見える位置に、ブルーシートとして可視化されていることは、ある意味その存在自体が「ここに社会問題がある」と異議申し立てしていることに他ならない。それを人々の見えないところに塵々バラバラに排除してしまえば、その社会問題自体は、不可視のまま温存された状態で先延ばしされることにも繋がるのだ。
 
 実際、横浜のNPOの人に聞いた話によると、ホームレスがバラバラに分断されてしまうと、いま現在、彼らがどれくらい存在していて、彼らが何に苦しんでいるのかの統計が取れなくなる(なっている)という。公園共同体が破壊されれば、ホームレスが連帯して社会に意義申し立てする機会もなくなるし、誰がいつ死んだのかもわからない(そのまま気がつかない可能性すらある)。「ホームレスにはそんなことを主張する権限はない。彼らは死んだって構わない」と言うのであれば話は別だが、そういう社会構成員が大多数になったときには、遅かれ早かれ、日本が滅びてしまうことは目に見えている。
 異質を排除して目の見えないところに追いやる。しかしこれは一方、問題を温存したまま解決を先延ばしにする面がある。彼らの存在を社会に対する「意義申し立て」として捉え、まっすぐ直視し、統計的な計算の下で、政策をデザインしていくべきだと僕は思う。
 (『公共性』を巡る議論については、本質的なところでは『土地は果たして国家のものか』という部分まで遡って考察する人もいる(馬鹿馬鹿しいけど笑)。去年の現代思想7月号がホームレス問題を扱っていて、大阪と東京、横浜のホームレスが対談しているのが興味深かった。興味のある人は一読をお勧め)。

ぐし について

スウェーデンのウプサラ大学大学院政治行政学修士取得、欧州議会漁業委員会で研修生として勤務後(-2013年3月)、ブリュッセルでEU政策や市場動向などを調査の仕事に従事。2014年11月から慶應大学のEUSI研究員。千葉市まちづくり未来研究員(自転車政策)。NPO Rights副代表理事として若者政策(主に若者参画)の提言や分析を行う。連絡先:gushiken17@hotmail.com
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