「私の心は私しか知ることができない」という考えは正しいか?

 るエッセイの中で養老孟司が「最近の人は自我が肥大化しているから墓を作らなくなった」と書いていた―。人々は、自分の死後、自分がいなくなった世界においても折に触れ、イメージとしての自己が他者の中で生き続けて欲しいと願い、墓を作った。そこでの自我観とはまさしく『他者から見た自我』であった。しかし時代が流れ人々は変わった。墓は必ずしも必要なくなった。自我は無限に拡大し、自分が他者によって勝手に恣意的にイメージされることに我慢が行かなくなった、あるいは、自分が死んだなら『自己』も死に絶えるため、墓など作る必要性を感じなくなったというのだ。
 「自己とはまさしく自分のことで、自己のイメージは他者からの眼差しではなく、自分によって規定されるものだ」という考えが支配的になったことは社会のあらゆる面から見て取れる。例えば、オタクがその一つの現象だろう。オタクという存在は、自分という存在を他者によって査定され、選別を受け、決め付けられることを嫌うために、他人と積極的に交わらず、文字通り『宅』に篭っているといわれている。彼らがそういう行動をするのは、「私の心は私にしか知ることができない」、つまり、「誰も本当の私は理解できないし、理解されたくない」と思っているからではないではだろうか。また、もし仮に、彼らが他者に自分の心を理解してほしいと思っていたとしても、その試みは必ずしも成功するとは限らない。むしろ、「他者の理解」は、不可能だと言ったほうがいいかもしれない…。
 例えば、文学的な観点から考えてみよう。人間が激しい恋に落ちるときは、相手そのものを愛しているというよりも、自分が主観的に想像した相手の理想像や幻想を愛しているという。言い換えれば、わたしが愛しているあなたは、実体としてのあなたではなく、私のなかのイメージとしてのあなたである。その意味で、相手を理解するという時の相手とは、相手の実体というより、自分の頭の中で作られたイメージとしての相手という側面がある。つまり、「他者(あなた)の心は私には知ることができない」と結論付けることができるのだ。しかしながら、他者が理解できないからという理由で、上記のオタクなどが、「私の心を知ることができるのは私だけ」だと内面化してしまうというのは、少し短絡にすぎるかもしれない。そこにはひとつ重要な点が抜け落ちているからだ。それは何か―。
 そもそも『私の心は私にも完全に知ることはできない』のである。もちろん、自分がいま何を考えているのかは分かる。だがそれを明確に文節化して言語化しようとすれば、例えば自分の欲求を巡る思考はすぐに雲散霧消してしまう。大澤真幸は、自分がいま何を一番食べたいのか分からない心象を「ファミレス的不安」と呼んだ。ファミリーレストランのメニューの中には、洋食、中華、和食といったように日本・世界の料理がほとんど揃っているにも関わらず、あるいはそれゆえに、本当に自分がいま何を食べたいと思っているのかわからなくなる―。
 そのような心象があることは漠然と理解できるだろう。私が思うに、仲間内の誰かが注文をしたのを見て確認することによって、自分も何を注文したいのかが明確になることがあるということだ。「君がそれを頼むなら、じゃあ僕はあれにしよう」という形で、他者が先立って現前することによってはじめて、自分の欲求が理解できると私は考えている。当たり前だが、他者との比較によって自己の立ち居地を俯瞰し確認できる。自分ではない他者から見たほうが、実は自分のことがよく分かるという場合も多いにありうるだろう。
 そういう意味で、「私の心は私にしか知ることができない」わけではないし、また、その必要性もないだろう。逆もまた然り。「あなたの心は私には知ることができな」くとも、問題はないのだ。そもそも「本当の私」という実体など存在しないのだから。本当の私も、本当のあなたも実は、わたしの中の幻想であり、あなたの中の幻想に過ぎないのだから。
 
 ここで幻想と言っているのは、この生きている世界、地球、宇宙がすべてイメージでできていると述べたいからではない。だからこの世はロールプレイングゲームだと言いたいわけではない。この幻想論は、実存のまったき放棄につながるのではなく、将来に向かう実存の果てしない希望を意味しているといいたいのだ。
 本当のあなたを明確に理解してしまえば、もうその人を理解する必要性はなくなる。本当の自分を理解してしまえば、自分を探す必要はなくなる。わからないからこそ知りたいと思う。人間は実体がなく、幻想のように移ろい流れ行く存在だ。墓を作るのも、いつどのように自分が後世の人々に思われ、認識されるのかわかったものではないからだろう。わたしは、わたしが死んでこの世から消え去ったとしても、人々のイメージの中に浮遊し生き残る。わたしとは、わたしにも如何ともしがたい、イメージなのだ。

ぐし について

スウェーデンのウプサラ大学大学院政治行政学修士取得、欧州議会漁業委員会で研修生として勤務後(-2013年3月)、ブリュッセルでEU政策や市場動向などを調査の仕事に従事。2014年11月から慶應大学のEUSI研究員。千葉市まちづくり未来研究員(自転車政策)。NPO Rights副代表理事として若者政策(主に若者参画)の提言や分析を行う。連絡先:gushiken17@hotmail.com
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「私の心は私しか知ることができない」という考えは正しいか? への3件のフィードバック

  1. 植田啓生 より:

    近代哲学では、自己の存在は否定されたと聞きましたが、それを形を変えて説明したという印象ですね。
    だだ、この結論をいくつかの文献をもとに先輩が自らの力で導き出したのかどうかが気になるところです。

  2. changsu より:

    最後らへん爆発してますねーww
    痛烈でとてもおもしろいです。
    最近思うのが、本ってぐしけんの言うところの「あなた」の十分な代替物になりうるかねー?本がその機能を果たすなら、オタクは本を読んで自分を知ればいいということになってしまう。まぁあまりに寂しい奴じゃけどw

  3. おぐしけん より:

    >植田氏
    授業のレポートを先生に提出するだけではつまらないので、ここに書き込んで晒してしまおうという企画、第一弾。ちゃんちゃーん♪。
    ちなみに、↑これほとんど全部、先人達や周りの人の受け売りを組み合わせただけです(笑)。植田氏の言うように、基本的には、いわゆる「自分が自分だ」のデカルトから、「他者が自分だ」のハイデガーやレヴィナスへの存在認識の変化を前提にしています。まあ正直、ぜんぜん理解していませんが……(^^)
    >changsu氏
    最近、changsuがブログを書いていることに気がついた(笑)。
     僕は、本は基本的に最もとっつきやすい「あなた」ではないかなと思っている。まあ(他者)がいるから僕がいるという考えから言えば、そこの(他者)は、本でも人間でも何でもいいんだけどね。自分についてコミットすれば何でも。
     ただ、現実的に考えれば、本だけからの自分発見だけでは不十分だよね。本から発見される自分はいわゆる能動的な所産だけど、他人と交流することによって指摘される、いわゆる受動的な発見もあるわけだ。上の、他者における自己イメージ論から言ってそっちも大事だもんね。たぶん。
     また、本だけ読んでオタクを続けて人との関わり合いを絶ってしまっていたならば、今度は自分が他者として「彼」の前に現前できるかという問題があるわけですよ。ある程度、自分から他者を理解しようという社会性がなかったならば、基本的に他者は彼と付き合おうと思わないわけで、寂しいなぁ。ぼくは、それは避けたいなぁと。

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